「さらば『広大フォーラム』」といっても、広大の広報誌がなくなってしまうのではありません。本来なら今年4月1日の法人化の際に、新しい広報誌がスタートすべきだったのです。しかし、広報UI戦略という観点からの広報体制の全般的見直しが終わるまで、これまでどおりの各部局選出の委員から構成される広報委員会が暫定的に編集・発行することになっていました。このたび広報グループ設置準備室が発足し、来年4月からは情報化推進部広報グループが新広報誌を編集・発行することになりました。1969年の創刊以来走り続けてきた『広大フォーラム』は次号の「卒業生・修了生・退職者特集号」をもって終刊となり、新広報誌がその役目を引き継ぎますが、これに伴い名称も一新されることになりました。広報委員会では、哀惜の念を込めて、広報誌『広大フォーラム』の36年間を振り返ることにしました。 |
広報委員会は2005年3月をもって廃止されるため、36年にわたり広報委員会が編集を行ってきた学内広報誌は、2005年2月号を最終号として幕を閉じます。『広大フォーラム』とその前身である『学内通信』のバックナンバーを眺めて、過去を振り返ってみることにします。 編集体制 現在の編集体制は、各部局等から選出された広報委員および担当事務職員、さらに34期(2002年度)からは学生広報スタッフも加わった陣容となっています。委員長と副委員長は各一名で、委員の互選によりますが、任期は一年です。委員会の申合せにより、副委員長が次期委員長となりますので、実質的には両者あわせて二年間、編集長の役割を担っています。ただし、過去には、二名の副委員長を置いていた時期もあり、現在の形となるまでに紆余曲折があったようです。 三十六年間の変遷(とくに様式) 現在の『広大フォーラム』は、A4版・全カラー・縦組み(四段)・右開きの32頁を標準としていますが、『学内通信』創刊号ではB5版・白黒・横組み・左開きでした。その間の主な変化については表1に示しています。 14期(1982年度)頃までは毎年度十号を超えて発行されていました。なかでも、4期(1972年度)には計32号、そして1期(1969年度)には計28号にも達しており、14期の最後の号は通算224号となっています。その後、ほぼ毎年度8号体制が続き、31期(1999年度)から6号体制に変わって現在に至っています。 各期の総頁数は、33期(2001年度)からの全カラー化後は200頁強ですが、それ以前は200〜400頁強で、例えば19期(1987年度)や23期(1991年度)には440頁に達しています(製本の都合上、頁数は四の倍数になる)。 特集と銘打った記事が登場するのは、「新入生歓迎特集号」や臨時号を除けば15期(1983年度)からで、特集総頁が200頁を超える期〔例えば、23期(1991年度)の208頁(総頁は440頁)〕もありましたが、25期(1993年度)以降は100頁前後となっており、全カラー化後は80頁前後です。 25期(1993年度)に、B5版からA4版へと冊子体が大型化されましたから、総頁数の比較だけで記事量が減少してきたとは言えませんが、全カラー化以降は、予算面からの制約で総頁数は従来より減少しています。 表1 広島大学学内広報誌の変遷〔1969年6月25日(創刊号)〜2005年2月(通算386号)〕
学内広報誌の検討例 「学内広報誌のあり方」については、過去の誌面に、関連する記事が何度も登場しますが、特集としては表2に示しますように二回だけです。 とくに20期(1988年度)の『20年目を迎えた「学内通信」』では、28頁を費やして、学長や19期までの広報委員長による「回顧」や「期待」、学内・学外からの「要望」や「期待」、広報委員会による『「学内通信」20年の歩み』としての記事内容変遷の紹介、さらに歴代広報委員長による『「学内通信」を考える』座談会などが企画されていて、今後の広報誌のあり方を考えるためにも参考になります。 一方、23期(1992年度)の『広大フォーラムについて考える』は、この期の広報委員が感じた意見を特集したもので、実際の編集に携わった上での問題点の指摘がなされています。 この他、一般記事やアンケート、さらにモニター制度による意見にも、多数の「学内広報誌のあり方」に関連した内容のものが見られます。これは、創刊号発行以来、たえず編集者である広報委員を悩ませ続けてきた大きな問題の一つであり、今後もそうであると思われます。 表2 広島大学学内広報誌のバックナンバーを「振り返った」特集
|