・越智 貢

( OCHI, Mitsugu )

第27期広報委員会委員長
大学院文学研究科教授

二十七期
 私が27期広報委員長を務めたのは、1995年度でしたから、今から十年ほど前のことになります。委員長に選出されたとき、困惑しました。一年間、大きな負担がのしかかることを覚悟しました。
 しかし、広報委員会の仕事は、予想に反して、負担にはなりませんでした。仕事が楽だったわけではありません。原稿集めは大変でしたし、締め切りが近づけばいつも綱渡りのような日々が続きました。ときおりトラブルも発生しました。政治活動家の学生と、彼の投稿をめぐって連日最終電車の時刻まで議論したこともあります。けれど、負担よりも楽しさが先行しました。
 委員には知恵者がそろっていました。しかも、彼らが徐々に広報の仕事を面白がるようになっていました。そんなスタッフと一緒に仕事をすることが楽しかったのです。会議では新しいアイデアが飛び交いました。施設紹介、学生座談会、モニター制度といった、現在も続いているシリーズや手法には、当時採用されたものが少なくありません。

スタッフ
 どのような仕事でも、それを裏で支えてくれる人々がいます。当時の関係者の顔が次々に浮かんできます。
 難波紘二先生が25期委員長時代に行った各種の改革がなければ、27期広報委員会の活躍はなかったに違いありません。彼が敷いた路線をさらに追求する中で、「広大フォーラム」の新しいスタイルが確立されてきたように思われます。「広大フォーラム」のビジュアル化に力を注いだのは若元澄男先生でした。それぞれの委員がそれぞれの力を出し合いました。すばらしい絵を毎号描いてくれた景山満子さんや学内の美しい写真を撮ってくれた学生スタッフの滝本勇紀君も忘れられません。
 事務の方々の力も大きいものでした。旧企画調査課の渡邉勝俊さんは、誌面のレイアウトまで担当していました。筆の遅い私は、いつも彼を困らせました。今でも「広大フォーラム」を手に取ると、渡邉さんの柔和な顔が思い浮かびます。

受 賞
 記事の書き方を徹底的に教えてくれたのは、学外モニターの梶浜誠さん(中国新聞社)でした。ジャーナリズムで培った経験から、見出しを工夫せよ、「はじめに」「おわりに」はやめよ、もっと文章を少なくせよ、写真を多用せよ、などとさまざまなアドヴァイスをいただきました。
 当時、このような本格志向の大学広報誌は日本には存在しませんでしたから、「広大フォーラム」は多方面から注目を浴びました。二十七期「広大フォーラム」は、国立大学等優秀広報紙表彰の大学の部で、二度、最優秀賞に選ばれました。表彰の講評には「文句なしの最優秀作品」であり「良いものは良いとする審査の当然の結果」だと書かれています。けれど、それをもたらしたのは、結局は、人です。受賞は、教員、職員、学生のスタッフが力を合わせて、それぞれの知恵を結集した成果でした。

停 年
 27期「広大フォーラム」の最終号(No.327)では、編集後記のところに小さな記念写真が掲載されています。東千田キャンパスの本部事務局の前で、二十七期広報委員とそれを支えた事務の方々とが並んでいます。久しぶりにそのページを開いたら、私もまだ若く、スマートな姿で立っていました。中には、すでに停年となって大学を去られた方もいます。
 今年度末には、広報委員会が解散し、あわせて「広大フォーラム」も「停年」を迎えると耳にしました。「広大フォーラム」は前身の「学内通信」が進化したものでしたが、次の広報誌はどのような変身を遂げるのでしょうか。期待したいと思います。

 「国立大学等優秀広報誌表彰」は、年一回、国立大学(短期大学を含む)及び国立高等専門学校における広報誌(過去一年間に発行したものから各校一紙推薦)の中から「優秀広報誌」を選定し、これを表彰するもので、これにより広報担当職員及び広報誌の資質の向上に資するものでした。
 賞には、最優秀賞(大学の部、高等専門学校の部、各一紙)、優秀賞(企画部門、レイアウト(デザイン)部門、文章(用字・用語)部門、写真部門の四部門、各一紙)、奨励賞があり、この頃、広大フォーラムは連続して最優秀賞に輝くことが出来ました。
 なお、この表彰は、2000年度をもって終了しています。


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