伊澤 義雅(先端物質科学研究科)
石川 武憲(医歯薬学総合研究科)
井上 研二(総合科学部)
江口 正晃(総合科学部)
大成 浄志(医学部)
大日南 勝(附属学校部)
岡野 治子(文学研究科)
奥田  勉(理学研究科)
加藤 成毅(附属福山高等学校)
金森 貞夫(総合科学部)
神谷 勝美(施設部)
河瀬 正利(文学研究科)
木上 尊子(国際協力研究科)
倉本 戴壽(医歯薬学総合研究科)
阪田 泰和(留学生センター)
阪本 昌成(法学部)
佐々木博司(工学研究科)
佐藤 一精(教育学研究科)
塩谷  優(工学研究科)
新谷 英章(医歯薬学総合研究科)
瀬藤 憲昭(工学研究科)
武島 浩江(医学部・歯学部附属病院)
地井 昭夫(教育学研究科)
崔  吉城(総合科学部)
中田 悦子(工学部)
中野美代子(自然科学研究支援開発センター)
中山 修一(国際協力研究科)
長澤  武(アドミッションセンター)
那須 正和(工学研究科)
西本  眞(附属高等学校)
野口 寧文(附属福山高等学校)
馬場 榮一(大学情報サービス室)
藤井 博信(自然科学研究支援開発センター)
舛岡 弘勝(工学研究科)
松井 文雄(工学部)
松浦 博厚(理学研究科)
松田 文子(教育学研究科)
松本 尚敏(医学部・歯学部附属病院)
三浦 一生(医歯薬学総合研究科)
溝上五十鈴(医学部・歯学部附属病院)
茗加 瑞一(附属学校部)
望月 悦子(附属三原幼稚園)
八木 邦子(附属学校部)
安田  源(工学研究科)
山西 正道(先端物質科学研究科)
山本 義雄(生物圏科学研究科)
頼  祺一(文学研究科)
渡邊 敦光(原爆放射線医科学研究所)
(五十音順)

【部局歴】は、事務・技術系職員のみ掲載しています。なお、広大内の異動歴のみとし、同一部局内の連続した異動及び他機関歴は不掲載としました。
*原則として、定年退職の方からメッセージをいただきました。


量子情報の構造 ―量子絡み合いとデコヒーレンス
大学院先端物質科学研究科量子機能電子工学講座
伊 澤 義 雅(いさわ よしまさ)


 最も印象深かったのは、量子論特有の「量子絡み合い」の概念に導かれ、任意の時刻の量子系の密度行列を、デコヒーレンス関数(D)、量子状態の確率振幅、初期時刻の密度行列、の関数として表示する公式を見いだしたことです。この公式は非常に有用であり、量子相関の定量的評価、純粋状態から混合状態への推移、これまでどう定義すべきか不明であったDの定義式の発見、…等々に導いてくれました。今後、この公式を、量子情報、量子力学のパラドックス、量子コンピュータ、量子回路設計、非可逆過程の研究など多方面へ応用すると共に、従来の「メソスコピック系の物理」のアプローチとは一味違う量子デバイスの基礎理論の開発や、量子論の概念的諸問題の解決、を目指し挑戦を続けてゆくつもりです。


英国留学の思い出と交友
大学院医歯薬学総合研究科顎口腔頸部医科学講座
石 川 武 憲(いしかわ たけのり)

上段:左からSeward教授、小生、
Bradley教授夫妻 下段:ドアに
貼られた小生への歓迎文

 文部省長期在外研究員として、前半はハンブルグ大学、後半はチューリッヒとロンドン病院に留学しました。ホワイトチャペルのロンドン病院では、コクニイ訛りの強い生活水準も低い患者がほとんどでしたが、医師の接客に、人間味豊かな利他的医療のあり方を教えられました。Seward教授の退官記念会に招待されましたが、祝福の中に、心温かさがありました。エジンバラからロンドンへ復帰したBradley教授は、新任教授室のドアに小生を歓迎する貼り紙で迎え、また秘書のLangstonも英国式ユーモアを投げかけ、知己になった英国人は楽しい思い出をくれました。その後、親交を結んだイーストマンのHarris教授も援助をくれました。一度は世界を征服した英国人の心の深さに感謝しています。私の大学生活の幅は、その交友を通じて拡大しました。


長期的ビジョンを持て
総合科学部言語文化研究講座
井 上 研 二(いのうえ けんじ)


 私は三十期(平成十年度)の広報委員長でしたが、当時退官される先輩教職員にこうしたメッセージの執筆依頼したのはつい昨日のことのように思い出されます。歳月のたつのがあまりにも早いので、いささか戸惑っています。国立大学が法人化される直前に退職するのが、周りの一部の人が言うように果たして「良い時」なのかどうか?これからの国立大学は外部資金を導入しやすい学問領域は安泰だが、基礎研究や外国語教育など教養的教育の分野は民間企業などからの資金も期待しにくく、あってはならないことですが、「切り捨てられる」可能性を危惧せざるをえません。現在「不況産業」に陥っているロシア研究・ロシア語教育を「採算が合わない」などという近視眼的な発想でとらえることなく、長期的ビジョンに立って対処して欲しいものです。


広島大学のさらなる発展を祈ります
総合科学部数理情報科学講座
江 口 正 晃(えぐち まさあき)


 昭和四十五年九月に当時の教養部に着任以来三十五年間、本学の教育・研究・学内運営に携わってきました。この間多くの方々にお世話になり、ここに深く感謝申し上げます。
 さて、教養教育の責任ある立場にいた者として感じることを一言。数年続いてきた教養教育の全学体制の評価をきちんと行い、次の計画を立てていただきたいと願っています。本学は厳しい国際競争下の日本を担うべき科学技術者を育てる責務を負っていますし、また一方、本学は教育を重視すると宣言しています。しかし現状は教養教育の全学体制の名の下に定員がその後の対応策ぬきに削られてきたため、必修指定の多い基礎教育分野は関係教官の努力にも関わらず混乱状態となり、実はそのしわ寄せが学生に行っています。宣言はスローガンではなく、本学としての社会(学生)への公約です。


医学部保健学科の発展とともに
医学部運動・代謝障害理学療法学講座
大 成 浄 志(おおなり きよし)

平成10年4月 医学系研究科保健学専攻博士課程後期第1期生の集合写真
(入学式後。筆者最前列右から3人目)

 保健学科に着任した平成七年四月は、学部発足四年目であり、修士課程設置の一年前という学科の創成期でした。翌年には学科長を拝命しましたが、与えられた仕事は修士課程の立ち上げと、博士課程後期設置準備の同時進行でした。我が保健学科は看護学、理学・作業療法学教育として、我が国で最初に設置された四年制大学であるため、前例がなくすべてが手探りで荷の重い仕事でした。当時の文部省のたび重なる難題に悪戦苦闘し、何度か絶望感を味わいながらも博士課程設置が認められたときには、心から安堵感を覚えました。これは保健学科の一致団結と、大学の総意の結晶でした。平成十六年からは大学院講座化となることが決まっています。益々の発展を遂げられることを念願してやみません。有難うございました。


思い出と感謝
附属学校部東雲附属学校係
大日南  勝(おおひな まさる)

京都にて

 広島大学に勤務して四十一年、皆様方の暖かいご指導ご厚情に支えられ定年を迎えることができました。
 顧みますと、教育学部福山分校会計係に初勤務した当時は旧陸軍第四十一連隊の跡地を引き継いだ古い建物が主で施設修理に奔走する毎日でした。
 毎年秋に行われる東部地区対抗のレクリェーション大会に一喜一憂し、終了後の懇親会で和やかに酒を酌み交わしたことが懐かしく思い出されます。やがて、大学が東広島市に統合移転され、私も同市内に家を移し公私ともに生活が一変いたしました。
 附属東雲校では、児童・生徒の笑顔に子供時代に思いを馳せ、校庭の池にいきいきと泳ぐ錦鯉などとのふれあいが仕事の一瞬をなごませてくれました。
 いよいよ、国立大学法人化が目前に迫り大学も大きく変わろうとしていますが、広島大学の更なる発展を心よりお祈りいたします。

【部局歴】教育学部福山分校、水畜産学部、生物生産学部、教育学部福山分校、教育学部、生物生産学部、文学部、法学部・経済学部、附属学校部


コンピューター・ライフに苦言を!
大学院文学研究科応用倫理・哲学講座
岡 野 治 子(おかの はるこ)

わずか4年間でしたが、私の慣れ親しんだ文学部棟と山つつじの風景です。

 音楽同様、機械にもオンチの私ですが、それでも論文作成の必要上、一九九〇年代の初頭からワープロを愛用していました。さて四年前に広島大学に奉職してから、私のキャンパスライフは一変!学内連絡は勿論、諸事務手続き等々コンピューターなしには日常の作業が進行しないのです。心優しい同僚や事務の方々の忍耐強い援助のお陰で最低限の需要はクリアーしてきました。今では私の変貌ぶりは昔の研究仲間から、賛辞(?)を戴くほどです。コンピューターの恩恵を今更否定する積もりはありません!でも機械の奴隷になったような気がするのは私だけでしょうか?コンピューター礼賛・依存の背景には、安易なスピード・効率・進歩至上主義があるのでは、と危惧を禁じ得ません。文学部だからこそ、異なる仕方で人間の価値と主体性を再発見し、再構築したいのです。


思い出すこと
大学院理学研究科分子構造化学講座
奥 田  勉(おくだ つとむ)

研究室のメンバー(2003年)
(筆者最前列中央)

 昭和三十四年に入学してから今日まで実に四十五年間も本大学にお世話になりました。学生として皆実分校の教養部から東千田町の教育学部・理学部、教職員として理学部一号館と二号館、東広島の理学部C棟へと時の流れとともに移り、その都度自分も大きく変わったように感じました。思い出深い体験は、六〇年安保闘争では学生側に、その後の七〇年安保闘争では教職員側に立場を変えて学生運動に直面したことで、それらの事は今でも鮮明に脳裏に刻み込まれています。
 四十五年間に実に多くの方々に接し、実に多くのことを教えていただき、またお力添えいただきました。良き師、良き先輩・後輩、良き学生に恵まれ、幸せな大学生活でした。大学を去るに当たっては、ただただ“ありがとうございました”とお礼を申し上げるのみです。


三十一年間のお礼
附属福山高等学校
加 藤 成 毅(かとう しげき)

平成 9 年11月海外研修
パリ・ノートルダム大聖堂前にて
(筆者左から2人目)

 三十一年前、附属福山校へ赴任した年、学校は丁度春日へ新築移転の年で、真新しい校舎に一層新鮮な気持ちになったものでした。それから三十一年間、私と共に時を刻み、様々なドラマを見守ってきた校舎。その間、お世話になった多くの先輩諸氏との出会いと別れがありました。附属福山校は、教育研究に、教育実習に、とりわけ生徒への教育に、優れた実績を積み重ね、その中で、「記念館」、「教育実習生用宿舎(オリーブ)」、「情報教育棟(ローズ)」と新しく建物(施設)が増え、名実ともに広島大学附属校としての福山の地での足場を堅実に築いてきています。このような栄えある学校で定年を迎えるまで長い間無事勤務できたことは、関係者皆様のご支援・ご協力のおかげと感謝しています。


広大の弥栄(いやさか)を祈念して
総合科学部広域文化研究講座(留学生担当)
金 森 貞 夫(かなもり さだお)

留学生とのテクテク歩き(筆者中央)

 産業界で三十五年の間勤務し、その後、広大にて五年に亘りお世話になりました。このような転身者でしたが、公私において、種々ケア頂きました皆様に、まず衷心からお礼申し上げます。
 身に染み込んだ前職の企業文化と経験から、少々口幅ったくはありますが、次のメッセージ(さらなる推進が期待されること)を広大に残したいと思います。
 @本物の改革(志向)、A学生、教職員等の満足度向上、B経営資源の投入における選択と集中、C諸般、スピーディな取組み、D留学生の受け入れ体制の整備。
 お願いをすれば、いろいろと真摯に対応して頂ける教職員の方々、留学生受け入れ体制の改善で再三絶大なご支援を頂いた生協、広くて空気清浄なキャンパス、専用の研究室等、総括としては、感謝、感謝のお別れであります。再見再見。


魅力有る広大キャンパスの創造に向けて
施設部
神 谷 勝 美(かみたに かつよし)

広島大学の施設マネジメント
スパイラル

 平成十三年に東広島キャンパスにきましたが、その美しいたたずまいと規模の大きさを目の当たりにして、この環境を大切にしなければと思いました。しかし、主要なキャンパスを見て回ると、いくつもの問題を抱えていることもわかりました。特に先端物質科学研究科の整備、新病棟完成後の既存病棟の活用、附属学校の整備などは急ぐ必要がありました。その後、附属学校を除く整備は着実に進み、今後の課題としては新中診棟・外来棟の整備と附属学校校舎を含む既設建物の耐震改修、中期計画に盛り込まれている教育研究等に係る施設の改善及び屋内外の潤いと憩いの空間創造等がありますが、これらの実現には多少の時間が必要でしょう。施設は教育研究の基盤であると共に、学園生活や社会との交流の場でもありますので、皆で魅力有るキャンパスを創造していきたいものです。

【部局歴】施設部


お世話になりました
大学院文学研究科地表圏システム学講座
河 瀬 正 利(かわせ まさとし)

考古学専攻大学院生との研修旅行(島根県荒神谷遺跡、銅鐸出土地にて。筆者中央。左から2人目は川越名誉教授、右端は古瀬教授)

 広島大学に勤務して約三十年。定年を間近に控え、さまざまな出来事が走馬灯のように脳裏を走ります。昭和五十年からの文学部の帝釈峡遺跡群の調査体制の整備と学生との毎夏の現地での合宿実習。また、昭和五十六年以降、大学の移転に伴う構内遺跡の調査担当として文化財と建設計画の調整にかかわったこと、さらに平成九年の文学部改組による国立大学初の文化財学講座の新設後、多くの学生の受け入れと優れた卒業生を送り出せたことなどなど、強く印象に残っています。これらの事柄が何とか大過なく果たせましたことは、ひとえに学内外の多くの方々のご理解とご支援の賜物と深謝いたしております。法人化など大学を取り巻く環境は年々厳しくなると思いますが、立派な理念のもと大きな目標に向って邁進されますよう祈念いたします。お世話になりました。


退職にあたって
大学院国際協力研究科等事務部
木 上 尊 子(きがみ たかこ)


 約三十年前大学教育研究センターに時間給職員として就職し、日給職員を経て事務官に採用となりいろんな立場を経験しました。このことは、私を太く大きく育ててくれたように思います。又、五年前には女性として広大では初めての事務長職を拝命しました。爾来、「広大で初の」という枕詞が私にはついて回りました。でも、皆さん、周囲を見渡せば今や元気の良いのは女性のようですね。そう遠くない将来、女性の事務長が当たり前のように生まれることでしょう。そうあって欲しいと思います。私は、この十月から財団法人「緑風会」に勤務しています。広大で学び、勤め、そして財団職員として広大を外から支援できることをとても満足し、感謝しています。ここまで有形無形のご支援を頂いた皆様には、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。

【部局歴】大学教育研究センター、附属図書館、庶務部国際主幹付、教育学部、歯学部、総合科学部、留学生主幹付、留学生課、学校教育学部、総務部総務課、国際協力研究科


最も印象に残った出来事
大学院医歯薬学総合研究科創薬科学講座
倉 本 戴 壽(くらもと たいじゅ)

チューターとして指導した学生と一緒に乾杯!

 昭和四十二年四月医学部生化学講座に助手として採用され、四十七年に薬学科に配置換えになりましたが、以来三十七年間医学部に在職しました。就職当時はまだ赤レンガの建物が並び、その三号館から教育、研究生活がスタートしました。在職期間で最も印象に残っている出来事は四十三年から起きた大学紛争です。学会から帰ると研究室が封鎖されていたのは強烈な印象として残っています。就職して二年にもならないうちに起きた紛争なので、学生の主張になかなか理解しづらい面もあったけど、教官として真剣に対応したことを覚えています。今にして思えば、学生が最も真剣にエネルギーを発揮した時期であり、教官もそれに対応した時期であったと思います。これから法人化される大学ですが、学生、教官にとって、よりよき広島大学に発展することを願っています。


草の根国際交流
留学生センター日本語教育部門
阪 田 泰 和(さかた やすかず)

2002年10月ペアセロベにてアフリカ
留学生協会の留学生と(筆者前列中央)

 医学部寄生虫学教室と国際協力事業団より一九七六年三月からフィリピンのレイテ島で日本住血吸虫症撲滅対策の一環として免疫診断法の指導、帰国後は各種寄生虫抗原を用いてのアレルゲン分析と抗原抗体反応を兎、ラット、マウス、ハムスターで実験系を確立し、興味ある日々を送りました。広島大学留学生の増加に対し、八八年五月ボランティア団体「留学生を支援する会」を設立し、生活必需品の援助を行い、現在も広島大学国際交友会と共に西条で続けています。九二年四月、インドネシアの貧しい家庭の子供達への学費支援団体「ヤヤサンアニャマンカシひろしま」を設立、毎年インドネシア親睦旅行を実施しています。九七年から留学生センターに移籍し、より多くの留学生と交流を深め、広島市内での交流会や国際交流イベントで年を忘れるこの頃です。


自己点検・評価の信憑性
法学部公法講座
阪 本 昌 成(さかもと まさなり)

研究室で談話中の筆者

 私は、自分の言動と性格につき「きわめて正常かつ穏当だ」と診断してきました。
 私が、他の人と違っている点があるとすれば、それは直球勝負に徹する論議をしてきたことでしょうか。私は曖昧な対話を嫌います。互いに傷口を舐めあうような、争点を意図的にぼかす長い会議が嫌いです。結論のなかなか出ない会議には私のイライラは頂点に達します。そのとき、私の温厚な性格は姿を消し、一挙に結論を大声で発しては会議を台無しにしてしまいます。このためでしょう、「法学部の奇行士」、「邪剣のマサ」、「礼儀知らずの法学部長」等々、私に関する烙印は多様を極めたようです。こうした烙印に対抗するために、私は、「ビジュアル系教授」、「法学部のアイドル」、等々のネーミングを創作しました。が、さほどの効用はなかったようです。自我と他我の溝は、かくも深淵?


忙中閑なし
大学院工学研究科複雑システム応用講座
佐々木 博 司(ささき ひろし)

20数年前まで、フェニックス駅伝で「オール電気電子」チームで走っていた頃のもの。さて、推定年齢37歳の私は何処にいるでしょうか?

 広島大学が国立大学として終焉を迎えるのと時を同じくして、三十六年に亘る広島大学における教員生活を終えるのは感慨深いものがあります。その間、一番想い出に残るのは一九七二〜一九七三年にかけてのイギリス出張です。当時研究者として大した実績もなかった私は、研究の基礎を築くことに努力するどころか、イギリス生活にとことんのめりこんでいったものでした。その結果、いわゆるイギリス的な考えや思考方式を吸収することができ、これを糧としていままで研究者として活動してこられたといっても過言ではありません。
 法人化後の大学はますます忙しくなり、私のような規格はずれの生き方は許されないのかも知れませんが、新たな知を産み出すにはゆったりとした時間を持つことが大切と思います。特に、若い人たちに時間を与えるような組織運営となるよう望んでいます。


退職にあたって
大学院教育学研究科人間生活教育学講座
佐 藤 一 精(さとう かずよし)

研究室の学生たちと一緒に
(2003年 2 月)

 振り返ってみれば、広島大学教育学部で過ごした二十二年間が一瞬のようにも思われますが、その中には数々の思い出が詰まっており、自分なりに人事を尽くし、充実して過ごしてこられたことをうれしく思います。この日が無事迎えられたのも、真面目で優秀な学生に囲まれ、信頼できる教職員の皆様に支えていただいたお陰であり、心から感謝致しております。
 この頃「国立大学法人となる前に退職できてよろしいですね」と良く云われます。確かにこれからの時代は大変ですが、いつの時代にも大変さはあるものです。就中戦争ほど悲惨で大変なことはありません。広島大学の平和を希求し、人間性を培う教育などの崇高な理念を大切にされ、社会有用の人材が輩出する、ボトムアップも機能する、民主的な大学として発展させていかれるようにお祈りします。


退職にあたり
大学院工学研究科応用化学講座
塩 谷   優(しおたに まさる)

研究室の人たちとの一コマ
(2003年11月)

 一九八七年に札幌から広島に移り、工学研究科の応用化学講座をベースにして、物理化学(分子物性化学)の教育・研究に携わりました。効率化と結果の有用性を求める科学研究が最近強調されます。工学部にいて何たることかと、お叱りを受けるかもしれませんが、初めから技術を目指すのではなく、科学は文化との認識に立ち、自分にとり面白いテーマを扱うことを基本としてきました。自由な環境を与えて下さった先輩、同僚、共同研究者など関係者の皆様に感謝致します。
 広島大学の一層の発展を祈念いたします。


留学生の思い出
大学院医歯薬学総合研究科顎口腔頚部医科学講座
新 谷 英 章(しんたに ひであき)

Pioneer Dental Collegeでの講演後の Dr.Hossain(左)と私(中央)

 東南アジアから我国の高度な歯科医療と歯学知識の修得を目的として、多くの歯科医師が本教室に留学しています。その中で強く私の記憶に残っているDr.Hossainは、歯科医療に関する高い理念と幅広い歯学知識、並びに高度な歯科医療技術を備えた歯科医師養成のために、本国で最初の私立歯科大をダッカに開設し、現在学長として活躍しています。私は、国際学会や日本学術振興会の特定国派遣研究員としてダッカを訪問したときに、人々の熱気に圧倒される空港や街での貧しさにショックを受けたことも少なくありませんが、医療技術の指導と共に、歯科診療・歯学教育の新たな展開について協力助言をしてきました。退官後も指導や歯科材料の援助を含めたボランティア活動を続けていくつもりです。皆様のご協力をお願い致します。


お体にお気をつけて
大学院工学研究科複雑システム解析・設計論講座
瀬 藤 憲 昭(せとう のりあき)

雪舟展看板
「破墨山水図」前にて

 当大学にご厄介になって二十八年、うち二十一年は列車とバスを乗り継いで広島市内から東広島キャンパスへ通いました。そして無事に停年を迎えることになりました。これもひとえに諸先輩方や同僚の皆様方のおかげでございます。あつく御礼を申し上げます。工学部が先駆けて当キャンパスへ移転してきたときに比べますと、周りもかなり賑やかになってきました。しかしキャンパスライフを楽しみに入学してくる学生さんには、まだまだ十分とは言えないでしょう。広島大学も「日本のトップレベルで学生さんを大切に育てる大学を目指す」というような長期ビジョンを立てなければ、学生さんを惹きつけられないのではと心配しております。
 大学の組織の変わり目でございます。そして季節の変わり目でもございます。どうぞお体にお気をつけください。


定年を迎えて
医学部・歯学部附属病院医療安全管理担当
武 島 浩 江(たけしま ひろえ)

日本看護協会リスクマネジャー養成研修Uのグループワークメンバーと(筆者前列右端)

 昭和四十年広島大学医学部附属看護学校を卒業後、広大病院に奉職して二十八年間病棟勤務後、臨床実習調整要員等を経て現在、専任リスクマネジャーとしての業務を終えることになりました。数え切れないほど多くの方のご指導と励ましに助けられ支えられて多くを学びながら、辿ってきた道のりは三十九年の長きに亘り、今、この時を迎えて思い感ずることは、ただただ人とのつながりの中で生かされてきた幸せをかみしめ、心から感謝しています。専任リスクマネジャーとしての三年間のインシデントを通して見える職員間の伝達、コミュニケーションの大切さは最も重要でありながら、最も足りなかったり困難であったりすることだと痛いほど感じて過ごしました。患者様の幸せを守るため、皆様方のお力を結集した益々のご活躍と広大病院の発展を心よりお祈り申し上げます。

【部局歴】医学部附属病院、医学部・歯学部付属病院


広大へ残すメッセージ ―もっと学生の居場所づくりを
大学院教育学研究科人間生活教育学講座
地 井 昭 夫(ちい あきお)


 月並みですが「光陰矢のごとし」です。支えて頂いた皆さんに感謝あるのみ。中でも旧学教の学生生活委員長時代の印象は、いまでも鮮烈です。委員会メンバーは、事務官と共にキャンパス内外で頻発する痴漢や恐喝、交通事故処理に翻弄されました。
 交通事故を除いて最近は落ち着いてきましたが、しかし、「学生の居場所としての東広島キャンパス」は、まだ水準以下だと思います。学生の居場所も、その知的水準を支える「隠れた環境」なのです。まずアカデミック地区を「サーキットの如く取り囲む環状線を、一旦見直して再生すること」です。最初に接するキャンパスが「サーキット」で、「昼食は戦場」で、「校舎にも居場所がない」では、広大の四年間の学生生活の空間の記憶と時間積分の質量は、高まりません。どうか、よろしく。


広大を生きる
総合科学部広域文化研究講座
崔   吉 城(チェ キルソン)


 世界は広く、道は細いです。人は多くても、孤独です。学問の道は細い道です。私はその細道を歩いてきました。ときには「石敢当」にぶつかり、回り道をしたことはあっても細い道から外れることはありませんでした。私は学問以外に教育を抱えて歩んできました。近い日本史から日本人はよく狂気になったことがわかります。無秩序のなかで自立する人間教育が必要です。「広大を生きる」覚悟で教育に臨んで歩んできました。「日本人作り教育」から「普遍的な人間」を養育する態度で臨んだつもりです。ここで四十余年間の教育の終点を迎えることになりました。高齢のわが愛犬が見せてくれる通り老後生活に備えるつもりです。これからは肩書きのない人生の細道に入ろうとしています。今までは肩書きや制度に守られてきたことを強く感じています。これからは自分の細道を自立して前向きに歩みます。


職場のラウンドチケット
工学部物質化学システム専攻事務室
中 田 悦 子(なかた えつこ

イタリアのスキー場にて

 偶然(?)にも工学部に始まり、工学部で終えるということになりました(通算約二十年)。その間、理、総合、歯、医の各学部を行脚しました。移転作業も大小あわせて四回。一筋に教室で黒子として働かせていただきましたが、勤務先が変わることにより、様々な世界の方々と接することができ、趣味の世界も広がりました。わがままもさせていただきました。自然を愛することで広い世界があることも、また何事も心身の健康なくしてはありえないことも解りました。
 ここまで続けられたのも、沢山の方々の温かい後押しのお陰と感謝しております。広島大学の皆様、有り難うございました。

【部局歴】工学部、理学部、総合科学部、歯学部、医学部、工学部


広島大学に感謝
自然科学研究支援開発センター放射性同位元素研究支援分野
中 野 美代子(なかの みよこ)

放射性同位元素研究支援分野のスタッフ(筆者前列右端)

 昭和三十七年四月広島大学理学部に入学して以来、約四十年の歳月を本学とともに過ごさせていただき心から感謝と御礼申し上げます。その間遭遇した大学紛争や勤務先の建物増築に伴う移転等数多くの困難も、良き師、先輩、同僚、そして素晴らしい学生たちに支えられ、何とか無事乗り越えて、今はただ楽しい大学生活の思い出ばかりが私の心に残っています。現在の放射性同位元素(RI)取扱施設での仕事も二十年になりますが、この間に出会った大学院生の多くの方々が、今では本学の教官や立派な研究者としてご活躍なさっておられますので、とても頼もしく思っております。この先、法人化で大学が大変革しても広島大学はますます発展を遂げるものと期待しております。最後に皆様方のご健康とご多幸を祈念致します。

【部局歴】歯学部、医学部、原爆放射能医学研究所、医学部、理学部、アイソトープ総合センター、自然科学研究支援開発センター


国際協力研究科での九年間
大学院国際協力研究科教育開発講座
中 山 修 一(なかやま しゅういち)


 国際協力研究科は、世界の貧富の差の拡大が平和構築の大きな阻害要因であることに着目し、学際的研究を束ねてアジアを中心とする発展途上国を対象に、国際貢献を実践しながら教育研究を深めることを使命に特設されました。この国立三大学にしかない独立研究科での九年間は、素晴らしい先輩、同僚、学生に支えられ、振り返れば光陰矢のごとく過ぎ去ったというのが実感です。
 また、最後の二年間は、本学の五大理念の第一「平和を希求する精神」の研究実践の先鋒を担う、平和科学研究センターへも関わらせていただきました。ただ、関係諸氏の期待に応えきれなかったことには、申し訳ない深い思いが残ります。しかし、国際研にも平和科研に対しても近未来の一層の発展を感じつつ、想い出多き職場を去ることができることに、感謝の念でいっぱいです。皆様ありがとうございました。


新しい入試を模索した三年間
アドミッションセンター
高等教育研究開発センター
長 澤   武(ながさわ たけし)


 広島大学にAO入試が導入された平成十三年度から、東広島キャンパスのアドミッションセンターに勤務して、三年が過ぎました。初めて取り組むAO入試の実施にあたって、学部の先生方と議論をしたこと、高校生を対象にした説明会をたくさん行ったこと、西日本の高等学校を中心に学校訪問をし、広島大学の卒業生の方々の、層の厚さを改めて認識したこと等が強く思い出されます。また高等教育研究開発センターの一員として、COEのスタッフに加えていただいたことも、私にとって、かけがえのない経験になりました。平成十六年四月からスタートする予定の入学センターが、広島大学の入り口を担当する部署として、広島大学の学内だけでなく地域社会の中にも、しっかり位置づけられて行くことを期待しています。


工学部三景
大学院工学研究科知識情報工学講座
那 須 正 和(なす まさかず)

工学部南の贋アカシアの木立

 広島大学に六年間勤務しました。まず、この間にお世話になった皆様にお礼申し上げます。印象に残ることは、自然環境の美しさです。
 朝、大学会館バス停から工学部に向かうとき、緩い坂を上って左手の、空いっぱいに広がる贋アカシアの梢を仰ぐのは気持ちの良いことです。続いて建物西側の庭園の木々の風情を楽しみ、A3棟の地階入口より入って西側階段を七階まで歩いて上るのが普通でした。秋ですと二階か三階を通り過ぎるとき、東側の扉が開けられていて、暗い廊下の奥に、まるで額に入ったような、陽に輝く赤い楓の景色が浮き上がり、美しさにはっとします。五月から六月、一〇七番教室、西側全面の窓に広がる深い緑は見とれるほどです。


附属へのメッセージ
附属高等学校
西 本   眞(にしもと まこと

 広島大学附属中・高等学校は二〇〇五年に創立百周年を迎えますが、それと同時に大きな転機をも迎えることになりました。というのも、今年の四月から国立大学法人になるからです。百周年までの二年間は、附属が、この激動の時代にどのような羅針盤をもって進むのかという重要な契機になると思われます。
 研究校でもあり、実習校でもある附属は、広島大学と密接に連携をとるのは当然ではありますが、地域の学校の目標となるべき開拓者としての役割も必要なことだと思います。国立大学法人の一員として、学校運営が厳しく問われますが、やはり最も基本的なことは、限りない可能性を秘めている生徒の能力を開化させつつ、附属の「よさ」をどのように生かすのかだと思います。頑張ってほしいと思います。


ビコーズ ユー アー ゼァー
附属福山高等学校
野 口 寧 文(のぐち やすふみ)

修学旅行で

 今からちょうど二十年前のことです。シドニー湾のクルーズで、私たちの船がなかなか着岸しないということがありました。心配性の仲間が船長さんに尋ねると、今、桟橋で魚つりを楽しんでるお婆さんがいるので、しばらくこのままで待ちたいということでした。
 今日、三十七年間の教師生活を、楽しかった、と思えますのは、振りかえりますと、このときの情景にたどり着きます。それまでの数学の授業をする教師から、一人ひとりの生徒のよさに触れている自分を意識するようになりました。エネルギーと好奇心とそして夢をもっている生徒と、前向きな教職員のみなさんといっしょに、広島大学で過ごせたことを誇りに思っています。


地域社会から親しまれ、頼りにされる大学に
大学情報サービス室
馬 場 榮 一(ばば えいいち)

私の好きなアメリカ楓の並木

 平成七年九月、広島大学地域共同研究センターの開設に伴って、民間の研究所から任用されました。特許相談室を開設し、学内の特許づくりの支援をさせて頂きました。現在、知財センターという形に進展しました。法人化にともない、特許の権利の帰属が大学に移りますから、大学の知財が地域社会にますます生かされていくことを期待します。平成十二年十月からは、大学情報サービス室に移り、学術総合相談窓口として、学内五十五名のコーディネータの先生方や事務職員の方々の支援を得ながら地域に開かれた大学となるべく努めてきました。教職員の方々から生み出される知をもって地域社会の一員として、ますます地域に親しまれ、頼りにされる大学となりますよう願っております。


広島大学に期待すること
自然科学研究支援開発センター物質機能研究開発部
藤 井 博 信(ふじい ひろのぶ)

 昭和四十三年広島大学に赴任以来、三十有余年大変お世話になりました。振り返ってみると、光陰矢のごとしです。一時は、他大学への転出を考えましたが、その内、外部から良き共同研究者を得、楽しい有意義な教育研究生活を送ることが出来ました。このような環境を与えていただいた本学に心より感謝しています。これから法人化を迎えますが、この機会を、広島大学を飛躍させるチャンスと捉えるべきと考えます。それには、何よりも各教官の意識改革が必要です。
 私が心がけてきた行動の判断基準は、それが国民に納得いただけるものかどうかに置いてきました。広島大学の教官・事務官はややもすると規則に縛られすぎていたり、学部エゴに捉われすぎているのではないかと危惧します。今後は、教職員一体となり、世界に目を向けた個性豊かな輝ける大学作りを目指し、特色ある教育・研究活動を展開していただきたいと考えています。


定年を迎えて
大学院工学研究科化学工学講座
舛 岡 弘 勝(ますおか ひろかつ)

他大学の友人と金閣寺にて
(筆者右)

 本学工学部化学工学科及び工学研究科修士課程をともに一期生として修了後、昭和四十年四月工学部助手として採用されて以来三十九年の歳月が過ぎようとしています。このうち、四年間は関係各位のお世話により東北大学で研究に専念させて頂きました。定年退職を目前にしていろいろな思い出が浮かんできます。統合移転、米国留学、内外の同業者との交流、教職員軟式野球チームでの対外試合等々、就中最も印象深く充実した日々は助手の時代に、上司の頼實正弘先生と吉村尚眞先生の下で、学生諸君とともに大学紛争の最中においても周囲の喧騒に惑わされることなく企業との共同研究を精力的に行ったことです。
 最後に在職中にお世話になった方々に感謝すると共に、広島大学の益々の発展と皆様方のご健康とご活躍を心よりお祈り申し上げます。


退職にあたって
工学部事務部
松 井 文 雄(まつい ふみお

平成7年7月 上高地河童橋にて
(筆者中央)

 昭和三十九年の東京オリンピック開催の年に木造二階建ての事務局に奉職して以来、四十年間広島大学一筋で終わることとなりました。
 この間、学内の数部署で主に会計関係の仕事に長く携わってきましたが、その中でも移転業務、概算要求関連業務、医事業務、文部省併任時での本省業務は、貴重な経験でもあり、大変勉強になりました。今思えば、いずれの業務においても忙しくもあったが楽しく充実して仕事ができました。また、仕事や趣味を通して学内外の沢山の方々と出会え、多くの友人を得られたことは自分にとって大きな財産と思っています。これも良き上司、先輩、同僚、後輩に恵まれ、ご指導、協力いただいたからこそであり、深く感謝申し上げる次第です。
 最後に、四月からいよいよ法人化、広島大学の目標とする「世界トップレベルの特色ある総合研究大学」を目指し大いなる発展を祈念するばかりです。

【部局歴】庶務部人事課、経理部経理課、庶務部人事課、同庶務課、統合整備準備室、庶務部企画調査課、経理部主計課、同経理課、歯学部附属病院、経理部主計課、施設部企画課、庶務部企画調査課、経理部主計課、歯学部、法学部・経済学部、工学部


広島大学の叡智に期待
大学院理学研究科分子構造化学講座
松 浦 博 厚(まつうら ひろあつ)

立山室堂にて

 マラソンレースはいよいよフィニッシュを迎えることになりました。学部四年生で研究というものを始めてから丸四十二年間、ずっと大学で研究と教育に携わってきました。三つの国立大学に教官として籍を置くことができたのは貴重な経験でした。それぞれ気風の違いはあるものの、一貫した真理を追求する雰囲気をどこでも感じとることができました。振り返ってみて、一番充実していたのは研究(実験)に没頭できた三十歳代までのような気がします。いまゴールを目前にして、これまで私を支えてくださった多くの方々に感謝申し上げます。
 広島大学はこれから新たな道を歩むことになりますが、その行く手は決して平坦なものではないでしょう。どの分野においても独自性と独創性が問われてきます。広島大学の叡智に期待します。


国家公務員で退職します
大学院教育学研究科心理学講座
松 田 文 子(まつだ ふみこ)

痩身ながら、11年間、
体調不良で休むことなし

 広島大学に十一年間在職し、このたび定年退職を迎えました。着任したときは教育学部所属でしたが、退職時は大学院教育学研究科所属で、名前がかっこよくなっています。内実はどうでしょうか。いずれにせよ、来年度の法人化に向けての改革に引っかからなくてラッキーでした。残る人の神経を逆なでするようですが、法人化に関するメールを開きもせずに消せる幸せを何度も感じました。今回、内実を前よりよくするのは、至難の技でしょうから。
 在職中に為したことは、ただただ指導院生を叱咤激励して、博士課程後期三年間で学位が取れるように指導したことと、階段を歩いて上がり下りするとき、無駄な電灯を消したことぐらいです。さしてお役に立てなかったことをお詫びし、新しい組織での皆様のご健闘を心から祈念します。


退職にあたって
医学部・歯学部附属病院調達課
松 本 尚 敏(まつもと なおとし)

毛利邸(防府市)にて
(筆者左から2人目)

 昭和三十七年三月広島大学に就職して初めて貰った給料(当時初任給行政職(一)八等級二号俸で職員俸給九千五百円でした)で質流れの腕時計を買いました。今は二代目になっていますが時間は正確に刻みあっという間に四十二年間が過ぎていきました。
 この間、それぞれ勤務させて頂いた職場では、それぞれの思いでがありますが、特に、広島大学の統合移転の第一陣として工学部の建物配置計画等に微力ながら参画させて頂いたこと、旧理学部一号館のピットの中に潜ったりして建物維持管理に携わったことなどです。
 最後にいよいよ国立大学法人広島大学が設立されますが、これまで以上に広島大学が発展されることを祈っております。

【部局歴】庶務課、庶務部人事課、医学部附属病院、経理部経理課、工学部、医学部附属病院、理学部、工学部、医学部、経理部経理課、医学部、理学部、経理部管財課、医学部、医学部・歯学部附属病院


三十五年を終えるにあたって
大学院医歯薬学総合研究科顎口腔頚部医科学講座
三 浦 一 生(みうら かずお)

医局員と(筆者右から2人目)

 私が広島大学に着任した昭和四十四年は大学紛争真只中でした。千田キャンパスは占拠され、霞キャンパスも医学部の一部の建物が封鎖されていました。八月に入り病院を占拠するとの情報が入り、そんな無茶はしないだろうとの意見が大半を占めましたが、万一のことを想定し、当時の歯学部四階大会議室から出汐交差点を見ながら、各科の助手が夜間二時間毎の見張りにつきました。しかし、我々の危惧は学生の良識によって打消されました。間もなく大学は機動隊導入をもって解放されました。その当時、青春を打っ付け、悩んだ学生達も五十歳を超え、現在の社会を背負って活躍しています。その当時の歯学部学生も立派な医療人として活躍しているのをみますと、安堵の気持ちとともに、三十五年を終えるにあたって教育の難しさを改めて考えさせられております。


広大看護の花が咲きました
医学部・歯学部附属病院看護部
溝 上 五十鈴(みぞがみ いすず)

パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル3国国境地点

 昭和四十年、レンガ造りの建物が多い中で、昭和三十七年より使用開始となった西病棟は当時では近代的で、その一階の原医研内科・外科病棟が私の看護人生のスタートでした。病棟前には古い倉庫があり、春にはそばの蓮畑から蛙の合唱が賑やかでした。患者は白血病や被爆によるケロイドのある人が多く、死亡率も高くてとても辛い日々でした。
 その西病棟は多くの思い出を秘めたまま第一線を退き、平成十五年一月より新入院棟が開院しました。二十世紀から二十一世紀へと世紀を越え、看護の発展と看護の心が通い合う病棟づくりに尽力してまいりました。とても幸せでした。そして有り難うございました。
 広島大学のますますのご発展と皆様のご健勝を心からお祈りいたします。

【部局歴】医学部附属病院、医学部・歯学部附属病院


定年を迎えて
附属学校部事務部
茗 加 瑞 一(みょうが よしかず)

 皆様のご指導ご鞭撻により無事定年を迎えることができました。ありがとうございました。
 昭和三十八年に工学部に就職して以来、十余箇所の職場を回りましたがそれぞれの場所で、思い出深い仕事をさせていただきました。
 特に記憶に残っているのは、留学生を担当している時代、留学生の母国で政変があり、帰国ができなくなったり、留学生の下宿探しに同行したり、その時代の状況下で色々あったことです。その後、二十数年ぶりに留学生から電話があった時は本当に驚きましたが、とてもなつかしく感激いたしました。
 平成十六年度から大学は大きく変わり厳しい状況になると思いますが、広島大学の発展及び皆様のご健闘をお祈りいたします。

【部局歴】工学部、医学部、教務課、総合科学部、施設部企画課、附属図書館、歯学部附属病院、歯学部、理学部、原爆放射能医学研究所、経理部経理課、総合科学部、生物生産学部、附属学校部


附属三原学園の「お茶室(景露庵)」
附属三原幼稚園
望 月 悦 子(もちづき えつこ)

茶道クラブの生徒によるお点前
(お茶をいただいているのが私です)

 学生四年間と教職三十八年間の四十二年という長きにわたって広島大学でお世話になりました。その間、充実した生活を過ごせましたこと厚く感謝申し上げます。
 数多くある思い出の中で一番心に残ることは、芸備地震で随所に亀裂・崩落した三原学園の茶室補修工事に、施設部の皆様が何度も出向いて、拙い学園側の説明と熱い要望に根気強くつき合って、細部にわたり誠心誠意取り組んでくださったことです。学園の茶室は、昭和九年創立二十五周年記念事業として、尾道の浄土寺茶室(露滴庵)を模築したものです。露滴庵は豊臣秀吉の伏見城内茶室を移築(移築の歴史はここでは省略)されたものですから、三原学園の茶室は格調が高いはずです。立派な茶室に再生していただき、子どもたちの心の教育ができる教育環境整備に関われたことを感謝しております。


感 謝
附属学校部東雲附属学校係
八 木 邦 子(やぎ くにこ)

教室に行って一緒に給食を食べる前に自己紹介しているところ

 「今日の給食おいしかったよ、又あしたも作ってネ」と言ってくれる可愛い笑顔に励まされて、あっという間にこの日を迎えることになりました。色々なことをおそわりました。同僚にはずい分たすけていただき大変お世話になりました。
 おかげ様で充実した毎日をおくらせていただき、さわやかな今日を迎えることができましたこと深く感謝し厚く御礼申し上げます。
 ありがとうございました。
 皆様の御健康と御多幸をお祈りしております。

【部局歴】附属学校部


情報発信基地としての東広島
大学院工学研究科応用化学講座
安 田   源(やすだ はじめ)

研究室旅行で鳥取砂丘へ(筆者右端)

 阪大から転勤して十四年目になりますが、いよいよ今春定年退官となります。赴任してきた頃は学生に覇気がなく、如何にすれば良い研究をやることができるか腐心した結果、学生全員に年二回学会で発表することを強制しました。勿論、費用は全て研究室負担であります。二、三年もすると学生は良く働くようになり、中央での学会で堂々と講演をし、井の中の蛙状態から漸く脱却しました。テーマは世界最先端のものを選び、業績はその都度英文で発表しました。その結果、外国の一流の化学者と繋がることができ最新のニュースが入ってきます。外国人の講演会には修士二年生には英語で質問させ、日本人の講演には修士一年生が対応しました。このようにして東広島でも充分情報の発信基地になれる自信を持つことができました。


未知なる森に分け入ってみよう
大学院先端物質科学研究科量子機能電子工学講座
山 西 正 道(やまにし まさみち)

新築の総合研究実験棟7階ラウンジにて、遠藤さん(先端物質科学研究科長)と「森のきのこ」について談笑中の私(前研究科長。左側)

 一九七九年に、広島大学に在籍するようになって、今年で二十五年になります。私にとって大きな出来事は、八二年の工学部の移転であり、また、移転がきっかけとなって生まれた着想が新しい研究領域を切り開くことになった事です。その後、科研費特別推進研究等の支援を得て、二〇〇一年副学長に就任するまでは、研究活動に集中することができました。この間学んだ事は、学際研究の大切さで、まさに「未知なる森に分け入ってみよう、何か新しい物が見つかる」を体験できました。その代わり、時には、道に迷ったり、傷だらけになることを覚悟する必要もあります。四月からの法人化は、「未知なる森に踏み込む」ことですが、有意義な展開につながる事を期待したいとおもいます。私自身も四月から私にとって未知の世界(民間企業)で活動する予定です。


学生あっての大学、教育を大切にしたい
大学院生物圏科学研究科応用動物科学講座
山 本 義 雄(やまもと よしお)

学生たちとのコンパ
(筆者左から4人目)

 二十三年程前に、鳥取大学から福山キャンパスへ転任してきたときの第一印象は、学生が実に生き生きとしていました。学生と教官がスポーツや各種のイベントに一緒に参加しており、教官は学生に信頼されていたように思います。古い建物施設と不十分な研究施設にもかかわらず、教育と研究がうまく機能していたように思います。統合移転により、立派な建物施設ができ、教育課程や組織の改組再編が行われ、研究活動は確実に活性化しました。しかし、基礎教育や現場型教育の充実により教官の負担が増えただけで教育効果が上がっているのか、不安を感じます。教官はあまりにも忙しくなり、学生と接触する時間が少なくなっているように思います。法人化によって、教育システムも大きく変わりそうですが、学生が満足できる広島大学になって欲しいと思います。


恩ほうじ
大学院文学研究科歴史文化学講座
頼   祺 一(らい きいち)

留学生と千代田町の花田植見学
(1985年、芸北民俗資料館にて。
       筆者前列右から2人目)

 私と広島大学との関係は長い。三原附中以来の学業生活が十五年、その後一年間市立尾道短大に勤めて母校に戻り、助手(文学部)・講師(二十五年史編集室)を経て総合科学部・文学部・大学院文学研究科と勤めたのが三十四年、合わせて四十九年も関わったことになります。奉職以来強く印象に残っていることは、大学紛争、二十五年史の編纂、岡本総合科学部長刺殺事件、通称二十一世紀委員会で大学の将来を語り合ったこと、総科の移転委員長および全学学生委員長時代の苦労、総科時代十六年間のプレハブ住まい、総科で学生と「地域研究」について議論したこと、等々です。その間、先生・先輩・学生・院生はもとより多くの教職員の皆さんと苦楽を共にしてきました。そのお陰で今の私があることを痛感する故に、今後とも「恩ほうじ」の気持ちで精進していきます。


「感激!!!」「感謝、感謝、感謝」
原爆放射線医科学研究所細胞再生学研究分野
渡 邊 敦 光(わたなべ ひろみつ)

落谷先生(前列右から2人目)を囲んで
(筆者前列左から2人目)

 以前広報委員の折、毎年この時期になると退官される先生の原稿を集めていた私が、今、その時期が来たかと思うと少し寂しい気がします。退官まぎわになり多くの人々より援助を頂いたおかげで、小さな芽が今開こうとしています。特に国立ガンセンターの落谷孝広先生はそのお一人で、私のために特別なラットを作って下さいました。更に大変嬉しいことに医学部や歯学部の学生諸君が私のプロジェクトに興味を持ってくれて、ボランティアで動物の手術を手伝ってくれていることです。皆の力を結集してこのプロジェクトが進行しました。いくら感謝しても足りないくらいです。このような学生諸君が今後本学の発展のために尽力されることと思います。次年度より法人化が始まりますが、若い力を結集し、益々本学が発展することを期待します。


広大フォーラム2004年2月号 目次に戻る