文・安原 義仁
( YASUHARA, Yoshihito )
大学院教育学研究科教育学講座教授


三好博士の著書(左:原著、右:英訳版)
研究成果のブーメラン現象

 海外の国や地域を研究対象とする人文社会系の学者・研究者にとって、自分の研究の成果が英語や当該の国・地域の言語で出版されることは大きな目標だといってよいと思います。それは、自分の研究が国際的な評価を得たことの一つの証となるからです。研究活動の国際的な拡がりに伴って、そうした研究は着実に増えつつあります。しかし、教育学や歴史学の分野ではなお一部少数の研究に限られているのが現状です。
 比較教育史・教育交流史のパイオニアである三好信浩博士(比治山大学学長、本学名誉教授)の手になる、このたび出版された本書はその数少ない例の一つであり、わが国の教育史研究の水準を示すものとして特筆されるべきものだと思われます。三好博士は十五年前に上梓された原著『ダイアーの日本』(福村出版、一九八九年)において、スコットランド出身のお雇い外国人教師ヘンリー・ダイアーにより、工部大学校(東京大学工学部の前身)で試みられた、世界的にも類をみない新たな工学教育の実験がイギリスに逆輸入されたことを「ブーメラン現象」と呼びましたが、本書の出版はまさに研究成果のブーメラン現象であると言えましょう。長い間、イギリス本国でも忘れられていたダイアーとその業績は近年、内外において、とくに国際交流の観点から新たな関心を呼びつつあります。その契機の一つとなった原著の英訳出版はさらにダイアーへの関心を高めることと思われます。ちなみに、一九九六年と一九九七年にはダイアーゆかりのストラスクライド大学と東京大学(工学部)において、相呼応しつつ「ダイアー・シンポジウム」が開催されております。

『ダイアーの日本』

 工部大学校における先駆的な工学教育の実験については、伊藤博文や山尾庸三などによる学校設立計画とダイアー招聘の経緯、理論と実習を組み合わせた「サンドイッチ方式」、そこから輩出した辰野金吾、田辺朔郎など近代日本の工業化を先導した人材への関心から、原著以前にも一定の先行研究はありました。また、社会経済史や日英文化交流史の観点からなされた研究もいくつかありました。原著はそれらの研究成果をふまえつつ、現地調査による内外の史料の博捜と徹底した実証により、日英両国における工学教育のパイオニア、先駆的日本研究者、日英文化交流の草分け、教育・社会改革者としてのダイアーをトータルに、かつ興味深く描きだしました。「ダイアーをめぐる十二の謎」を立て、シャーロック・ホームズばりに謎を解いていく論証・考証のさまは、推理小説を読むに近いものがあります。たとえば、グラスゴー大学教授職に二度応募して敗れたダイアーの心中・内面に迫る一方、ダイアーびいきに陥らない醒めた目配りと抑制のきいた叙述が為されています。
 このような内容の原著がこのたび、元駐日大使で日本研究者でもあるコータッツィ卿の序文と「ダイアー再考―二十一世紀の日本とグローバリゼーションへの道―」の一章を付加して、新たな装いのもと(興味深い図版や写真も多くある)に英訳出版され、広く海外でも読まれるようになったことは、輸入・翻訳学問と言われるわが国の人文社会科学にとってまことに慶賀すべきことだと思われます(海外の情報・知識・文化の積極的な受容それ自体はきわめて望ましいことでありますが…)。この分野での、情報の一方的受信という文化の直流から交流への道のりを開く事例として、元気づけられると同時に鼓舞(叱咤激励)される出版であります。
 なお、本書の出版と並行して、ダイアー著作集全五巻が三好博士の手で編集され(序文も同博士による)、近く刊行予定となっていることを付記しておきます。


広大フォーラム2005年2月号 目次に戻る