文・橋本 金平
( HASHIMOTO, Kinpei )

大学院社会科学研究科博士課程前期
平成16年3月修了


ゼミの学生さん達と(座っているのが鹿野先生。筆者右端)
 私は海上自衛隊時代に幹部学校で戦略教官として、クラウゼヴィッツの『戦争論』、マハンの『海上権力史論』、リデルハートの『間接戦略』等を付焼刃ながら講義していたことがあります。最後は戦史室長も務めました。ここでわかったのは、海上自衛隊幹部学校は、米海軍との協同関係を重視する割には、アメリカ海軍史をやっていないということでした。
 1992年退職後、少し回り道をしました。空白の十年、自分に合わない仕事ばかりしていたように思います。十年ほど前から社会人大学院が盛んになり、東京出張の折には、ホテルで開催される説明会に参加してパンフレットを集めていました。当時広島大学への入学は、元自衛官ではとても難しいと思っていました。その後1999年に村田晃嗣先生の『米国初代国防長官フォレスタル』(中公新書)が出版され、海軍がふんだんに登場する本を書く先生が広島大学におられるとは時代が変わったなという感触を得ました。しかもフェニックス制度(生涯教育・研究を充実するための広島大学独自の入学制度)があることも分かり、研究計画はペリーから現代までの「日米海軍関係史」として提出しました。試験を受けた時には、村田先生は既に退職され、鹿野忠生先生から面接を受けました。「海軍は門外漢だからね」とやや逃げ腰な感じでした。そこで「海軍のあるところ貿易ありですから先生お願いします」と詰め寄ったのを思い出します。先生は、著名なイギリス経済史・帝国経済史研究者である東北大学文学部の吉岡昭彦教授の門下生で、「これからはアメリカです」とゼミ内でご自分だけ専攻研究を変えた変わり種です。ところが私にとって幸いなことに、先生には子供の頃から海軍の大ファンという接点があり、私が舌を巻くほど海軍に詳しいのです。
 先生はアメリカ貿易史がご専門で特にコーデル・ハルに詳しいため、研究テーマは「ハルと海軍」としたいと思いました。しかし、ハルと海軍とは関係がないという専門家が多かった中、「碩学」の氷山には大きな金塊が詰まっていました。先生がナショナル・アーカイヴスで収集された資料、出身校の東北大学や若き日に教鞭をとられた九州産業大学に先生が残されたアメリカ議会資料が積層しており、研究室にあるハル・ペーパーのフィルム資料等からハルと海軍との関係を実証しうる感触を得ました。少し不安はありましたが、「コーデル・ハルとアメリカ海軍」に決めました。先生から「海軍が抜けては橋本さんの研究にはならない」、「原史料に当たらない論文は認めない」と言われて必死の思いで先生所蔵のファイルから海軍を探しだすことになりました。門戸開放政策の原則を堅持しながらも国力に比し貧弱なアメリカ海軍を背景にして「極東の分岐点」に苦悶するハル、海軍長官を差し置いて海軍拡張計画に奔走するハル、海軍整備を睨みながら経済制裁、戦争も辞さずと原則に執念を燃やすハルを見ることができました。11年間の激動の時代に国務長官を務めたハルは大海軍主義者だったのです。
 平成16年3月に大学院博士課程前期修了、以来先生と共同研究を行い、第一部が先生の新しい視野にたった世界自由貿易体制の創出過程におけるハルとナチス・ドイツ経済体制との対決、第二部が第一部を前提としたハルの極東政策の展開と同国海軍の役割の究明を目的とした構成で、『現代世界経済秩序の形成とアメリカ海軍の役割―世界史の全体構図からみた「太平洋戦争」の歴史的意味とその教訓』を完成させました。年度末には本学の平和科学研究センターから刊行される予定です。これは学会の大御所、入江昭氏の『太平洋戦争の起源』(東京大学出版会)に真っ向から対決する研究叢書であり、ご期待を乞うものです。
 パンフレットの「フェニックス入学制度」のねらいには、高齢者層の長年の蓄積した知見経験を次世代社会の資産にしたいと書かれていますが、私の場合は全く個人的なものです。学問をすることがこんなに楽しいものであるかを知り、もちろん自分の成果が社会的に評価されることを期待するのはやまやまではあります。今まで雑誌『丸』、『世界の艦船』、『歴史の群像シリーズ』には数々書いてきました。そこで次なる目標は、今まで二十五年間所属していたアメリカ海軍学会に向けて自分の論文を基に英文で何篇かを投稿することです。下手な鉄砲数打てば必ず当たるを期待して、アメリカから日本に向けて逆発信するのです。
 60歳前後は社会的肉体的にも大きな節目となります。私の場合は勤め先が経営破綻に瀕したのでその後始末のため入学を一年延期、昨年は二ヶ月入院していました。そんなわけで指導の先生には大変ご迷惑をかけてしまいました。


広大フォーラム2005年2月号 目次に戻る