阿江  忠(工学研究科)
朝倉  尚(総合科学部)
有本  章(高等教育研究開発センター)
飯田 紀子(医歯薬学総合研究科)
石橋 康徳(教育学研究科)
伊東 一幸(理学研究科)
井藤壯太郎(工学研究科)
伊藤 敏男(生物圏科学研究科)
井上 星児(国際協力研究科)
岩永  襄(医歯薬学総合研究科)
大隈 教臣(附属高等学校)
大藤由美子(技術センター)
小方  厚(先端物質科学研究科)
岡本 敏一(生物圏科学研究科)
小篠 敏明(教育学研究科)
甲木 佑輔(病院)
金子  亶(病院)
金本 宣保(附属福山高等学校)
鹿野 忠生(総合科学部)
河村 賢次(生物生産学部)
栗園 重弘(附属高等学校)
小早川美保子(工学研究科)
小林 京子(附属福山高等学校)
佐伯あけみ(人事部)
佐々木明子(医歯薬学総合研究科)
佐藤 眞典(教育学研究科)
重田 征子(先端物質科学研究科)
白根 眞子(医歯薬学総合研究科)
高谷 雅善(技術センター)
竹岡 清二(技術センター)
竹島 俊之(総合科学部)
竹平 勝臣(工学研究科)
竹本八千穂(病院)
田尻 寔 (附属高等学校)
田邊 邦昭(技術センター)
段安 忠信(理学研究科)
塚本瑠璃子(理学研究科)
徳永 俊彦(教育学研究科)
中川 平介(生物圏科学研究科)
中田  高(文学研究科)
中村 千晴(財務部)
奈良  勲(保健学研究科)
難波 憲二(生物圏科学研究科)
難波 紘二(総合科学部)
難波 平人(教育学研究科)
早川 式彦(原爆放射線医科学研究所)
藤越 康祝(理学研究科)
藤村 欣吾(医歯薬学総合研究科)
本田 和親(外国語教育研究センター)
間田 泰弘(教育学研究科)
松井 亨景(産学連携センター)
宮澤 啓輔(生物圏科学研究科)
夜陣 紘治(医歯薬学総合研究科)
安田 公臣(財務部)
吉田 敏男(総合科学部)
(五十音順)

【部局歴】は、事務・技術系職員のみ掲載しています。なお、広大内の異動歴のみとし、同一部局内の連続した異動及び他機関歴は不掲載としました。
*16年度定年退職者57名中、55名の方からメッセージをいただきました。


若い力で未来を創造
大学院工学研究科 コンピュータ・システム工学講座

2004年ドイツでの国際会議の帰途フランクフルト市内にて
阿 江   忠(あえ ただし)

 着任したのは広大の大学紛争のあとでした。しかし、「若さは未来を創造できる」と感じました。いつの間にか三十五年ほど経ち、広大を去る時期になりました。
 法人化後の未来は厳しい、と誰も思うはずで、バラ色と称している上層部の言うことを鵜呑みにできるわけがありません。難局を乗り切り、新生広大の未来を切り開くのは若い人です。年寄りに対する遠慮は不要です。思ったことは発言し、実行して下さい。閉塞状態だと思うなら、自ら打破して下さい。組織をつくるのは人ですし、類は類を呼びます。
 「世界の中心」には人が集まり栄えるはずです。さもないと、広大に未来はないでしょう。


罪状二件
総合科学部 広域文化研究講座

ここ10年間の公務(?)の一つは、乾杯の音頭の発声役
朝 倉   尚(あさくら ひさし)

 ものに拘泥し過ぎる性格が、周囲の方々に大変ご迷惑をおかけいたしました。ここに罪状二件を認め、教員生活をしめくくります。
 どんな方面の原稿も、すべて手書きでした。この一年、やっとEメールを自分で読みますが、他はすべて不可。現代の原始人です。
 アフター・ファイブは、事情の許す限り、同僚と一献(特定銘酒「某」)を傾けました。
 どの職場や現場でも、人と人との親密は必須であります。「能率」や「建前」が幅を利かせる世界では、人情が薄れ勝ちで、やがてロボット社会化するのではないかと心配です。人と人との温もり、機器はしばしばこれを消去・阻害し、酒はしばしばこれを醸成いたします。と、信じます。


COEの条件を考える
高等教育研究開発センター

有 本   章(ありもと あきら)

 本学には教育学部助手(大学問題調査室併任)二年、大学教育研究センター及び高等教育研究開発センター教授十七年、合計十九年奉職しました。ここに無事定年退職を迎えますことは、偏に皆様のご支援のお陰であります。
 高教研センターは本学の「特別研究センター」として世界的COEの構築を期待されています。自らが学問中心地やアカデミック・プロダクティビティやCOEの条件を研究してきた経験を踏まえその条件を考えますと、ヒト、モノ、カネ、情報、組織、とりわけヒトに帰着し、世界水準の研究者をいかに確保するかが課題となると言えるでしょう。
 センターに着任以来、インブリーディングの抑制を含め、この種の条件整備に微力ながら努力して来ましたが、幸い二十一世紀COEに採択され、大変嬉しく存じております。その間に寄せられた新旧スタッフの皆様のご協力に感謝しますと同時に、所期の目的達成に向けて今後一層の発展を祈念しております。


広大に残す言葉
大学院医歯薬学総合研究科 病態探究医科学講座

比冶山の桜
飯 田 紀 子(いいだ のりこ)

 広大に来て十数年、その間の教育及び研究生活はそれなりに楽しく、満足の行くものでありました。物理的視点を持って生理生体機構を理解しようと北海道大学時代に抱いた高分子物理学への好奇心が、その後の研究者としての道を方向づけました。当時、物理学者で生体科学の先駆的存在であった岡小天先生(元国立循環器病センター研究所長)の下には、多くの理想に燃えた若き研究者が集い、研究を競っておりました。このような中で先生からご指導を仰ぎ、曲がりなりにも生体科学者としての道を歩むことが出来ましたことは幸いでありました。しかし、広大医学部の生理学教室に来て寂しく思いましたことは、教育と研究に懸けるさめた情熱を感じたときでした。恵まれた環境を生かし、持てる英知と才能を教育と研究に発揮する地道な努力は意義ある使命と考えます。


学生・同僚に恵まれて
大学院教育学研究科 初等カリキュラム開発講座

散歩中
石 橋 康 徳(いしばし やすのり)

 学生・同僚に恵まれて今日を迎えることができました。感謝しています。印象に残っていることはたくさんありますが、中でも学校教育学部の移転準備のため、東広島キャンパスを見学に来たときの寒々とした風景は強く印象に残っており、当時はこんな所に通ってくることになるのかと気が滅入ったものです。しかし、今やキャンパスの整備も進んでそのような思いは昔の話となりました。外部からは教育に関するソフト面も整ってきているように見えます。確かに箱ものにあたるものの整備は進んでいますが、実体をともなっていないと感じるものがあります。その一つはシラバスでしょう。シラバスが教員と学生との間に緊張感をもたらすものとなる日がやってくることを期待しています。


新秩序を信じて
大学院理学研究科 物性科学講座

学生とのディスカッション風景(筆者中央)
伊 東 一 幸(いとう かずゆき)

 今大学は、「十八歳人口の減少」に対処しつつ、「科学技術立国」の担い手たることを強く求められています。この要望は、「自由な発想で個性輝く大学を構築する」という例の表現の中に凝縮されています。ご承知の通り、この流れは随所に見られます。例えば、直ぐ役立つ研究の偏重は避けるべきとされる一方で、外部資金獲得のための研究スタイルの見直しや社会に向かった研究成果の説明責任が求められたりします。また、大学の全入時代が目前に迫っている一方で、学生定員の確保と卒修了生の質の確保が要請されたりします。「ふざけるな!」とゴネたいところですが、大学種別化競争のまっただ中にいる以上、やるしかないでしょう。新秩序の到来は十年先でしょうか。しんどい話ですが、皆さん、自分の姿を見失うことなく、しかし何とかこの荒波を乗り切って下さい。


長くて短い三十五年
大学院工学研究科 応用化学講座

初代工学部長中江大部先生壽像の前で
井 藤 壯太郎(いとう そうたろう)

 大阪万博が始まった1970年に広島大学工学部に助手として就職して以来35年の長きにわたって広島大学にお世話になりました。新制広島大学発足以来56年の実に八分の五も在籍していたことになります。この間、良き師・先輩・同僚・友人に恵まれ、また常に20歳前後の若い学生諸君と触れ合いながら働くことができ、幸せな歳月であったと感謝いたしております。1982年の東広島へのキャンパス統合移転も当初は不便さもありましたが、新しく広くなった実験室で存分に実験をすることができるようになり、今では楽しく懐かしい思い出となっております。
 統合移転、重点化・部局化と着実に発展を遂げている広島大学が、2049年の創立百周年までには、世界トップレベルの特色ある総合研究大学へと飛躍されることを心から祈っております。


私を支えてきてくれたもの
大学院生物圏科学研究科 応用動物科学講座

クアラルンプールでのAAAP学会にて
平成16年9月(筆者中央)
伊 藤 敏 男(いとう としお)

 「お兄ちゃんの手は温いね」。学生時代、所属していた奇術クラブの仲間と、ある養護施設を訪問した時、肌寒い秋の日の朝、校門まで出迎えてくれた小学生の女の子が私の手を握りながら発した言葉です。特に気にもかけず、舞台を終えて道具の片付けをしていると、別の女の子の集団が来て、「腹へっ太郎君はどこにいるの」と聞くので、「あそこの中だよ」と腹話術人形の入ったスーツケースを指さしたところ、その女の子は自分の着ていた上着を脱ぎ、そっとスーツケースにかけているではありませんか。着たきり雀の人形が舞台のセリフで「寒い」といったのでしょうが、人形の寒さを自分の寒さとして感じ、自分の上着をかけてやっている姿が、霞んで見え、これが私のレクリエーション活動等の原点となりました。「学生に愛を」。三十八年間お世話さまでした。


国際協力の大学院で〈国際倫理〉を探求
大学院国際協力研究科 教育開発講座

(上)ショーリッシュ教授と
(下)スモーキー・ヴァレーにて
井 上 星 児(いのうえ せいじ)

 自分の研究や教育にかつてなく〈国際〉的な広がりがみえたこの十年でした。研究交流面で思い出すのは、ある朝わが研究室の前で、「米イリノイ大学の教授M・ショーリッシュといいます」と老紳士に名乗られ、「貴研究科の紀要で見つけたあなたの英文のエッセイを読み、お話ししたくて…」と。客員で本学に滞在中という国際的学者の突然の訪問に、ろくな著書もない無名の田舎教師は狼狽しましたが、米国人学者の謙虚な行動性に学びました。
 教育面では、学生を毎年アジアの一国に引率する「国際カリキュラム開発論実習」というユニークな科目を担当しました。ある年はマニラ郊外のスラム「スモーキー・ヴァレー」の慈善学校を訪問。巨大なゴミ山に生きてなお輝く天使たちの笑顔に癒されつつ、深い協力課題を背負って帰国しました。


医学部へのメッセージ
大学院医歯薬学総合研究科 探索医科学講座

住血吸虫の調査(アフリカ:ジンバブエ共和国)1999年3月撮影
岩 永   襄(いわなが ゆずる)

 在職中、ライフワークの宿主・寄生虫関係の研究に加え、厚生省、国際協力事業団などの協力により、アメリカ留学、発展途上国(ブラジル、コスタリカ及びアフリカなど)での研究と寄生虫症調査・技術指導など行ってまいりました。特に、発展途上国では、多数の寄生虫罹患者によって地域社会に大きな損失を与えている事実を真に見るたびに、寄生虫病撲滅対策を早急に進めなければならないと痛感してまいりました。日本では寄生虫病はすでに歴史的なものと思われている人が多いけれど、最近は海外旅行、ペットブームなどにより寄生虫病の増加傾向が見られるため、再流行病として認識すべきです。特に、臨床医の先生方には、寄生虫病に積極的に目を向け、対処して頂きたく思います。終わりに、広大病院の御発展を心からお祈り申し上げます。


定年退職を迎えて
附属高等学校

大隈 教臣(おおくま のりおみ)

 附属が創立百周年を迎える記念すべき年に退職を迎えて、今は晴れ晴れとしたさわやかな気分です。思えば学生時代から広大とのご縁は23年になります。「全共闘」「封鎖」の時代を経て教育学部の教務員を一年間勤めた後、公立高校に18年間勤務氏,附属に来たのが昭和62年でした。博学で研究熱心な教師、個性豊かで、能力の高い生徒に囲まれ18年間を附属で過ごしてきました。この間約3600人の卒業生を送り出し、約500人の教育実習生を指導してきました。「附属」という古い宿屋が気に入りしばらく逗留していたのが、いつの間にかそこに住みつくことになってしまい、お客さまを迎え、見送りしてきた気持ちです。この宿も建物が古くなりました。経営方針の見直しと同時に新館に建てかえる時期だと思われます。


定年を迎えて
技術センター 原爆放射線医科学研究所部門

研究室の片隅で
大 藤 由美子(おおとう ゆみこ)

 定年という人生節目のラインでふと立ち止まり、振り返れば万華鏡を覗くがごとく原医研血液内科での思い出が、走馬灯のようによみがえります。
 三十余年前、初代教授が「顕微鏡を覗いて白血球をスケッチしてごらん」と言われながら、自ら西洋紙を折りたたみスケッチする格子を作ってくださったこと、これがミクロの世界との出会いでした。このときの感激は昨日のように思い出されます。
 異動のない教室勤務でありながら、移り行く流れの中を様々な状況にフィットし、楽しく仕事をさせてもらえましたことを教室の皆様方に感謝してやみません。長い間お世話になりありがとうございました。

【部局歴】原爆放射能医学研究所、原爆放射線医科学研究所、技術センター


大学は世話の焼きすぎ?
大学院先端物質科学研究科 量子物質科学講座

学園祭にて(筆者右端)
小 方   厚(おがた あつし)

 私の大学体験は六年余でした。研究室はゼロから立ち上げたので、すくなくとも私に関連する事物はゼロに戻して立ち去るつもりです。
 縁あってジャズ研究会のサークル顧問というのも務めました。学生諸君のご指導よろしきを得て、一緒に演奏を楽しむまでになりました。ジャズは高度な人間関係の上に成り立つ高度な頭脳労働です。一所懸命に、しかも仲よくやっている学生諸君を見ていると、未来に希望がもてるように思えます。
 本来の学業に関しては、あまりに大学が学生の世話を焼きすぎていると思います。大学は高校の延長ではないのですから、おんぶにだっこを排し、ジャズの練習のように学生が自主性を発揮しつつ学べる環境を工夫することが必要でしょう。


危惧
大学院生物圏科学研究科 応用動物科学講座

解剖実習中の筆者
岡 本 敏 一(おかもと としかず)

 「学生は教育というサービスの消費者」という言葉が本学発行の冊子にあります。教育に市場原理は適用できません。全体として市場原理が適応しない活動に、部分的に適用するとその活動の本質が失われます。
 私が広島大学水畜産学部に赴任したときは大学紛争の最中でした。この紛争を契機に、学部では教官による情報の共有化がなされ、学生に良かれと思い、学部改組、大学院再編と博士課程設置、学部移転まで学部一体で進められました。しかしその後の「大綱化」、「大学院の部局化」は学生への利点は見られず、わずかに学部の数年の生き残りしか得られていません。市場原理を持ち込む「法人化」に至っては日本の大学教育が壊れるのではと危惧しています。


世界の広島大学へ健闘を祈ります
大学院教育学研究科 英語文化教育学講座

研究者仲間とともに。左から2人目は恩師Howatt博士(筆者左端)
小 篠 敏 明(おざさ としあき)

 私は、学生として九年、教員として二十五年、あわせて三十四年、広島大学にお世話になりました。私の人生の大半は文字通り広島大学とともにあったと言っても過言ではありません。学生として私は多くのよき師に恵まれました。教師としては多くの有能で有為の学生とともに研究を続けることができました。特に、大学院で学生と切磋琢磨しながら、ともに研究の第一線を走らせていただいたことはわが人生で最大の幸せであったと感謝しています。
 広島大学はこれから世界の広島大学として生きていかなければなりません。世界を舞台に、教師と学生がともに研究者として全力を尽くす。そこから広島大学の新しい可能性が開かれるものと信じます。わが母校広島大学の健闘を祈ります。


定年を迎えて
病院 調達グループ

岐阜県ひるがの高原にて
甲 木 佑 輔(かつき ゆうすけ)

 昭和四十七年九月に、教育学部東雲分校へ採用になり三十二年間、大変お世話になりました。この度、大過なく定年を迎えることができますのも、ひとえに皆様方のおかげと感謝しております。
 思い出に残っていることは昭和四十八年九月に教育実習で三原附属学校係へ実習生の荷物(講堂へ宿泊するため暖房器具・勉学用具等)を四トントラックで二往復、日帰りしたこと…現在では、交通事情も変わり自分の体力も衰え無理でしょう。施設面でも「景雲ハウス」という立派な宿泊施設も整備され、今では当時を懐かしく思いだされます。
 最後に広島大学の益々のご発展と皆様方のご健康とご活躍を心よりお祈り申しあげます。

【部局歴】教育学部東雲分校、学校教育学部、医学部、法学部・経済学部、総合科学部、理学部、歯学部、医学部・歯学部附属病院、病院


病院経営健全化に向けて
病院 運営支援部

草津 白根山(群馬)にて
金 子   亶(かねこ まこと)

 平成十五年十月に病院経営調整官に任じられ、医療の安全を含めた「高い質を持つ医療の維持」と「経営基盤の確立」を課題として、国立大学法人化後の病院経営に取り組んできました。
 今後、経営はますます複雑で困難な局面を迎えることでしょう。生き残るためには、限られた資源・費用をいかに有効に活用していくか、そして無駄を削減していくかがさらに重要な課題になると痛感しています。
 また、この課題を解決し、乗り越えていくためには病院全職員の意識改革が大切であり、私達の行動一つ一つが「経営」に常に直結しているのだということを意識しておく必要があります。
 今後も病院の内外を問わず、何に投資し何を削減するかに継続的な検討がなされ、メリハリのある経営健全化が推進されることを心から期待しております。

【部局歴】医学部、医学部・歯学部附属病院、病院


親子二代を教えました
附属福山高等学校

その6人と私(筆者前列右から2人目)
金本 宣保(かねもと たかほ)

 1967年からずっと広島大学附属福山中・高等学校で国語の教師をしてきました。1975年の3月に卒業したクラスは、毎年同窓会をしていて、卒業クラスがC組だったので「六C会」と呼んでいますが、今は、卒業時C組でなかった人も参加しています。もう30回目を迎え、彼らももうすぐ50代になりますが、「いた時は普通の当たり前の学校と思っていたが、福山附属は他にない、いい学校だ」と言います.
「自分の子供も」と思うようで、昨年2004年の夏の会に参加した16人の中で、6人はその子供も「福山附属」にきました。私は二代にわたって教えることになりました。


裏切られても裏切らないように
総合科学部 広域文化研究講座

奄美群島・加計呂麻島呑の浦に静かに眠る「震洋」(230―250キロの爆薬を装着したベニヤ板製の旧海軍の特攻艇)洞窟艇庫跡にて
鹿 野 忠 生(かの ただお)

 私は、仙台空襲を避けて辛くも生き残り、原子爆弾により広島でこの世の地獄を体験された恩師から厳格な学問的鍛錬を受け、私立大学の教員を経て本学教員になりました。学術研究書『アメリカによる現代世界経済秩序の形成―貿易政策と実業界の歴史学的総合研究』(南窓社、2004年)を刊行し、フェニックス入学試験制度で大学院に入学、私が指導教官を担当した元海上自衛隊幹部学校戦史研究室長・橋本氏との共同研究『現代世界経済秩序の形成とアメリカ海軍の役割―世界史の全体構図からみた「太平洋戦争」の歴史的意味とその教訓』を本学の平和科学研究センターから刊行し、私の最後の仕事とします。
 これからは益々厳しい時代となります。みなさまには、人から裏切られても、それを冷静に受けとめて人を裏切らない強い精神力をもつことを期待します。


練習船豊潮丸と共に
生物生産学部 附属練習船豊潮丸

豊潮丸の海図室にて
河 村 賢 次(かわむら けんじ)

 昭和四十三年五月水畜産学部(福山市)二代練習船豊潮丸に採用され豊潮丸での乗船生活が始まり、福山市で二十年(三代豊潮丸は昭和五十三年十月に新造)昭和六十三年十一月に練習船基地が定係港として呉に移って十六年、合わせて三十六年間の乗船生活も無事に終え、定年を迎えることが出来ました。
 その間のいろいろな航海〔本州一周、南西諸島、韓国、東シナ海(トロール実習)〕など大時化の中での苦しい航海、うって変わって凪の時には気分爽快な航海、また新潟中越地震で大きな被害となっておりますが、阪神大震災で援助物資を届けた時の神戸の惨状が思い出されます。
 無事事故なく航海が出来た事は、教員、事務職員、船員の方々のご指導、ご支援が在ればこそと深く感謝しております。
 終わりに皆様方の今後の健康、ご多幸、安全航海、と早期の新船豊潮丸の建造を、そして広島大学の益々の発展をお祈りいたします。長い間、ありがとうございました。

【部局歴】水畜産学部、生物生産学部


忙しい時期にお別れします
附属高等学校

副校長室にて
栗園 重弘(くりぞの しげひろ)

 中等教育の現場でも改革の必要性が叫ばれ、本校でもいくつかの新しい教育活動に取り組みつつあります。
また本校は、次年度に創立百周年を迎える時期にもあり、主な記念事業についてもすでに準備をしてきました。編纂に3年余りをかけた記念誌は、日本一の学校史と自負できるもので、刊行目前です。国の有形文化財に指定されても利用環境としては今ひとつであった講堂も、空調・音響・照明施設など内部の充実が実現できそうです。加えて、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の研究開発は三年目を迎えようとしています。
法人化への対応も迫られており、教育現場がますます忙しくなる時期に退職することになりますが、皆様のご活躍をお祈りしつつ、お別れとさせていただきます。


感謝の気持ちを込めて
工学研究科 教育研究活動支援グループ(社会環境システム専攻)

三瓶山にて
小早川 美保子(こばやかわ みほこ)

 四季折々ののどかだった田園風景も学生街と言われる町並にいつのまにか変わり、振り返れば人生の三分の二近くを広島大学で過ごしました。
 その間学生部では大学紛争、施設部では紛争のあおりで間借り生活、工学部では東広島市への統合移転、理学部では法人化の報に接し、再び工学部では国立大学法人化へと大きな動きがあり、激動の中にいながら自分なりに一生懸命頑張ったつもりですが、迷惑も随分かけてしまい出会った多くの方々の支えと励ましを頂きながら、無事退職できますことに安堵と感謝の気持ちで一杯です。
 今日まで暖かく見守って下さった広島大学の皆様、長い間本当にお世話になりました。これからの新しい人生を大学での思い出と共に元気にスタートします。
 ありがとうございました。

【部局歴】教務課、学生課、施設部企画課、工学部、理学部、工学部、工学研究科


わが教師生活“太陽のもとで”
附属福山高等学校

国立大学・学部附属学校等教官海外派遣団として、タイのアユタヤでのワークショップに参加したとき(筆者右から2人目)
小林 京子(こばやし きょうこ)

 大学卒業後の二年間は神戸市の公立中学校に勤務し、そのあと附属福山に着任してから36年もの月日が経ちました。自宅からの通勤、母校福山分校の恩師の傍、教育実習でご指導を受けた先生のもとで甘え心がちらつき、日の出のように明るい気持ちで着任いたしました。結婚し、妻・二児の母、教師と三役をこうした先輩の諸先生方や家族に支えられて、乗りきることができ、感謝の気持ちでいっぱいです。
 長いようで短かった36年、振り返れば大学との関係、附属での同僚や生徒との生活、家庭科教育等いろいろ晴れもあれば雨の日もあり、太陽が出たり隠れたりの日々の繰り返しでした。日没近くなると、日の出の頃の生活が懐かしく、走馬灯のごとく脳裏を駆け巡っています。太陽が翌日明るく顔を出す日を楽しみにし、休息に就きたいと思います。


お世話になりました
人事部 職員福利グループ

送別会にて(筆者前列中央)
佐伯 あけみ(さえき あけみ)

 昭和42年に共済職員として採用され、退職までの37年間のうち大半を「貸付業務」に携わり、いつのまにか通称「何万年も生きているおばあさん」に様変わりしてしまいました。
 大学紛争後、統合移転が決まってからは高度成長期も重なって貸付ブームとなり、ひたすらご迷惑をおかけしてはいけないと、仕事の先生は「文部省・財務局の監査の指摘」でした。今思えば「がむしゃら」だったなぁ…と、大量の書類を見るたびに感慨深くなります。
 平成9年1月末から、西条勤務となり、雪景色や鳥のさえずりに感動しつつ「日々更新」が、いつの間にか退職の日を迎えることが出来ました。ここまで努められたのは関わりのあった各学部の担当の皆様のご協力のお陰と、旧経理部の方々のご支援、周りの若い方々のお気遣いに励まされた賜と感謝してやみません。
 「どうも長いこと有難うございました。」


退職にあたって
医歯薬学総合研究科等 部局長支援グループ(原医研担当)

21世紀COE国際シンポジウム会場で(筆者右から2人目)
佐々木 明 子(ささき めいこ)

 昭和三十九年二月、夢と希望に胸をふくらませて広島大学へ就職しました。
 以来四十年もの長い間勤めさせていただきました。顧みますと、それぞれの職場で数々の素晴らしい出会い、経験をさせていただきました。
 心に残っている出来事の中でも、「大学紛争」、「東広島市への統合移転」、「独法化」は、忘れることはないでしょう。
 勤務地も、霞キャンパス、東千田キャンパス、東雲キャンパス、東広島キャンパスと経験させていただきました。どのキャンパスにも沢山の楽しい思い出があります。
 何時の時代にも、やさしくして頂いた先生方、先輩、同僚、後輩の皆さんに助けられて、定年と言う「ゴール」に着くことができました。心から感謝し、深くお礼を申し上げます。ありがとうございました。最後に広島大学の更なる発展をお祈り申しあげます。

【部局歴】原爆放射能医学研究所、教育学部東雲分校、学校教育学部、医学部、庶務部庶務課、同人事課、同庶務課、同国際交流課、総務部国際交流課、原爆放射能医学研究所、原爆放射線医科学研究所、医歯薬学総合研究科


民主的で文化的な…?
大学院教育学研究科 社会認識教育学講座

マルコポーロ賞授与式にて
(筆者左前列、背後のみ)
佐 藤 眞 典(さとう しんすけ)

 学生・院生・教員として広大にいた年数は四十四年間。ピサのScuola Normale Superiore に二年間留学した期間を除けば四十二年間。長期間いたのに広大に残すものがありません。学校教育学部が設置された時、日本の何処にもない便覧を作成するように命ぜられて半年かけて創りましたが、最早学部自体の消滅とともにその「民主的で文化的な国家」を造るのに教育が果たすべき役割の重要性を教育基本法から引用して載せた『便覧』も消えてしまいました。民主的な国家モデルのイタリアの都市コムーネの研究ではマルコ・ポーロ賞と学長賞を受けましたが、文化的国家モデルのルネサンス研究ではまだ本さえ上梓していません。せめて額に汗して学生の心を耕し、播種して残そうと奮闘してきましたが、魂の耕作方法がよくないのか、学生の生育は芳しくありません。道半ば嗚呼!


「葦の髄から天井のぞく」の諺の如く
大学院先端物質科学研究科 分子生命機能科学講座

ある年の忘年会で
重 田 征 子(しげた せいこ)

 もう、定年か、一生の研究ってこんなものか、といったところです。研究は絶えず面白く楽しく行えました。テーマは「アレルギーをいかに克服するか」ですが、研究室に配属された学生達と日夜を共にして、前記命題の解決に心血を注ぎ、一つ難問が解決するとさらに十の難問が待ち構えている状態でした。絶えず何故、どうして、どうすれば、という世界で、一日たりとも同じ事をしている事がありません。研究速度の速いこの世界で、先によそからの情報として判ることもシバシバ。その時その時は「葦の髄から天井のぞく」の諺の如くで、狭い結果を得るだけで全体が見えません。だから苦しい、しかし、楽しかった。様々な人々に支えられて、私はフルスイングすることが出来ました。学生の皆さんも今の時代を全力疾走してください。


「出会い」に感謝して!
医歯薬学総合研究科等 教育研究活動支援グループ

新谷教授退職パーティにて
(筆者前列右から2人目)
白 根 眞 子(しらね ますこ)

 母が急逝し、一人になった父と暮らしたいと二十年余住み慣れた名古屋から、昭和六十三年四月に故郷広島へ帰らせて頂き、十七年間お世話になりました。折しも理学部は移転のヒヤリングが始まり、超多忙な時…。名古屋大学では医療福祉の仕事が主。経理係の仕事は初めてで戸惑うことばかり。名古屋弁を蔓延させるだけ…。そんな中、係の上司・同僚は勿論、多くの方々の沢山の助けを頂いたことは今も忘れられません。当時の人たちとは、今も毎年お会いして「出会い」の喜びをしみじみ噛み締めています。ただ、今この仲間の一人でお互い本音で話せた杉山真知子さんを失った事が無念でなりません。また、新谷教授の講座では事務室で経験出来ない多くの貴重な経験をさせて頂きました。
 恵まれた「出会い」の中で沢山のかけがえのない「真心」を頂き、お陰様で今日まで頑張ることが出来ましたことを心から感謝致します。

【部局歴】理学部、原爆放射能医学研究所、歯学部、医歯薬学総合研究科


顧みれば
技術センター 医学部等部門

北海道トマムスキー場にて
高 谷 雅 善(たかたに まさよし)

 “光陰矢のごとし”。昭和三十八年技術員に採用され、医学部病理学第一講座で三代の教授の下で四十二年間勤め終える事ができました。
 当時、飯島教授直々に病理解剖の心構え、解剖手技を徹底的に教え込まれた事、又、組織標本の作製も理屈では出来ないもどかしさを今だに忘れる事が出来ません。
 メス研ぎに始まりメス研ぎに終わり、すべてが手作業で信頼を得る技術到達までかなりの年月を要しこれぞ技術職人と自負した時代と違い、メスは替刃になり作業工程も自動化が進み空調設備も完備され、職人芸は消え失せ、悩み苦労した時代は夢のようです。
 職務も高度化、複雑化し、より専門性の高い技術能力が求められてきている反面、対話が希薄になった気がします。
 人との和を大事にされ、更なるご発展を祈願しております。

【部局歴】原爆放射能医学研究所、医学部、技術センター


退職にあたって
技術センター 原爆放射線医科学研究所部門

放射線実験系のスタッフと管理室にて(筆者中央)
竹 岡 清 二(たけおか せいじ)

 昭和四十年当時の原爆放射能医学研究所は、霞地区で一番新しい建物で、私は医学部から技官として採用されましたが、平成十六年度から国立大学法人化となり、組織改革で技術センターへの所属となりました。
 今日までの四十二年間は放射線関係の仕事、技術センターの設置等では多くの皆様にお世話になり、無事定年を迎えることが出来ました。
 その間には施設の増設、装置の設置、管理等で困難な時期も多々ありました。
 思い出深い体験としては、チェルノブイリ原子炉事故で旧ソビエト連邦、JCOでの事故で東海村へと技術協力で参加させていただいたことで、今でも強く脳裏に残っています。
 今後、技術センターの皆様には更なる技術の向上を目指され、活躍されることを願っています。

【部局歴】医学部、原爆放射能医学研究所、原爆放射線医科学研究所、技術センター


第二外国語教育をもっと大切に
総合科学部 言語文化研究講座

井上研二先生のご退官記念パーティーで
竹 島 俊 之(たけしま としゆき)

 私が昭和五十一年に総合科学部に赴任して以来ずっと大学改革の嵐が吹き荒れ、いまだに止みそうにありません。その改革の中で痛感したことは第二外国語教育がますます軽視される状況にあるということです。それは教員数に歴然と表れています。赴任した頃は十八名いたドイツ語教員は定年で辞められた先生の後の補充はまったく行われず今年はわずかに九名へと半減してしまいました。私自身は大学でのこの第二外国語の制度は世界に誇っても良い素晴らしい制度だと考えています。二年生の授業である『訳読法演習U』の受講生がこの頃になると相当に難しいテキストを美しい発音ですらすらと訳していく姿を見ていると、このことを痛感します。第二外国語制度の充実を切にお願いします。


広島大学での八年間を振り返って
大学院工学研究科 グリーンケミストリー講座

2003年9月Europacat(Austria, Innsbruck)に出席して(筆者左から2人目)
竹 平 勝 臣(たけひら かつおみ)

 修士課程修了後三十年間を東京、筑波の国の研究所で過ごした後、広島大学工学部に戻ってから早いもので八年が経ちました。丁度、筑波での最後の年にNHKの大河ドラマ「毛利元就」が放映され、厳島の合戦で元就が陶晴方を打ち破ったのが同年齢であったことを記憶しております。大学内の研究室には私の専門とする固体触媒の研究設備は皆無であり、先ずは部屋を整備して装置を揃えるための研究費の獲得から仕事が始まりました。幸運にも広島県の五年間のプロジェクト、科学研究費あるいはNEDOの公募プロジェクトなどで纏まった資金を確保でき、学内外の研究室を整備すると同時に満足すべき研究成果も残すことができました。その間に研究室を巣立った学生諸君が、立派に世の中で活躍を始めているのを嬉しく眺めております。


退職にあたって
病院 総務グループ

日本で二番目に高い北岳にて(筆者左)
竹 本 八千穂(たけもと やちほ)

 昭和三十八年、夢と希望を胸に広島大学医学部第一内科に勤務しました。当時医学部は一号館から十一号館までレンガの建物でした。五号館の研究室で先生方の研究のお手伝いをさせていただきました。浦城教授、三好教授、梶山教授と三代の教授に仕えさせていただき、とても有意義でまた誇りに思っております。
 講座から事務部へ配置換えになり、仕事になかなかなじめず無我夢中の十余年でした。そのうち皆様のお力になれない内にこの日がきてしまいました。この間、沢山の方々との触れ合いと先輩の方々の励まし、ご指導に深く感謝いたしております。これからも、数多くの方々との楽しい思い出を胸に残りの人生を私なりに精一杯生きて行きたいと思っております。皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。

【部局歴】医学部、医学部附属病院、医学部、原爆放射能医学研究所、原爆放射線医科学研究所、医学部・歯学部附属病院、病院


還暦を迎えて
附属高等学校

還暦の祝宴にて
田尻 寔(たじり まこと)

 今年の1月30日に還暦を迎え、子供たちが還暦を祝う宴を開いてくれました。還暦は、まだまだ先のことだと思っていたのですが、いよいよその歳になってしまったのです。
 昭和60年4月、附属に赴任してから20年、それまでの公立高校での17年をいつの間にか越えてしまいました。
 附属中・高等学校では、教育に関してとても沢山のことを学ぶことができました。公立の高校ではわからなかった中学校教育の大切さや、国語教育の理念とその指導のあり方など、本当に充実した研鑽の日々でした。
 教育の現場には、困難な問題が山積みしており、附属においてまだまだやり残したことが数多くあるように思われますが、今後しばらくの間は、新しい教育の場において、附属で学んだことを活かしていきたいと思っております。


十年後の広島大学に期待!
技術センター 工学部等部門

1993年3月広島萬象園にて
(筆者左から2人目)
田 邊 邦 昭(たなべ くにあき)

 先日卒業生が飛行機搭乗前の待ち時間を利用して、三十数年振りに訪ねて来ました。彼は約一時間後、以下の言葉を残して慌ただしく帰京していきました。
 「私が入学した頃は『教育の広大』でしたが、最近は『研究』に大きくシフトしています。『研究』には優秀な学生を多数集める必要が有り、外国人留学生も必要かもしれません。しかし、我々企業は優秀な日本人が必要です…。」
 彼の言葉に私は共感を覚えます。最近の社会情勢からすると、『教育』と『研究』の両刀使いの教員ではなく、それぞれ別のプロフェッショナルな教員が良いと感じています。
 色々ご意見は有ると思いますが、広島大学がより充実した『教育』と『研究』の出来る環境を目指して皆さんそれぞれの持ち場でガンバッテ下さい。十年後を期待しています。

【部局歴】工学部、技術センター


退職雑感(法人化元年)
理学研究科 教育研究活動支援グループ

平成16年師走 道後温泉にて
(筆者前列右から2人目)
段 安 忠 信(だんやす ただのぶ)

 国立大学法人創設期を体験しての退職となりました。
 この一年を振り返りながら、ふと、大学に勤務し始めた昭和四十四年頃の大学紛争、その後の「開かれた大学」を目指した諸改革に思いを馳せていました。あれから三十六年、質の違いこそあれ「教育改革」が叫ばれ、改革に情熱が注がれてきました。法人化元年となる今年、この不断の改革にかける情熱とエネルギーに、時代を超えた大学の永遠の使命を感じます。邁進する前途洋々たる広島大学を思い、エールを贈ります。フレー!!フレー!!ヒ・ロ・ダ・イ!!……。
 さて、思い出せば、楽しく、懐かしい思い出のぎっしり詰まった三十六年間でした。みなさまには大変お世話になりました。ご厚誼、ご厚情の数々、心から感謝申し上げます。広島大学の益々のご発展を祈念いたします。

【部局歴】教育学部附属三原、教務課、歯学部附属病院、医学部附属病院、庶務部企画調査課、医学部附属病院、医学部、庶務部国際主幹付、同国際交流課、歯学部、学生部学生課、同教務課、理学部、理学研究科


教育研究支援一筋の三十六年でした
理学研究科 教育研究活動支援グループ

平成16年12月 西表島での学生実習にて(筆者左から3人目)
塚 本 瑠璃子(つかもと るりこ)

 非常勤職員の時代を含めて三十六年間広島大学とともに歩んできました。大学紛争、統合移転、国立大学の法人化等、主としていわゆる教室現場で悲喜こもごもの経験をさせていただきました。研究論文のタイプ打ちから実験器具の洗浄、図書、学科・専攻事務全般と業務内容も変わっていきました。原爆投下後の体験を綴った原稿の清書をしながらその悲惨さに目を真っ赤にはらしながら広島大学原爆被災誌「生死の火」の編集のお手伝いをしたこともありました。組織変更、定員削減等により最小限のスタッフ数となっても多岐にわたる業務をなんとかこなすことができたのは、先生方と事務方との信頼関係は勿論、特に相棒との“あうん”の呼吸の賜物であったと思っております。

【部局歴】文学部、理学部、理学研究科


多くの方々に助けられて
大学院教育学研究科 自然システム教育学講座

卒業生に囲まれて
徳 永 俊 彦(とくなが としひこ)

 まだ若いと思っていましたが、とうとう定年を迎えることになりました。広島大学を卒業後しばらく愛媛大学に奉職した以外はずっと広島大学でお世話になりました。その間多くの先生方と学生諸氏に助けられて楽しく過ごさせていただきましたことを感謝いたします。
 どの分野も同じでしょうが、私が取り組んだ物理学に於いてもその奥の深さ、難しさに悩まされる毎日でした。この難しい物理学を学生達に理解させることは至難のことと思います。しかも近年は社会の変化、大学改革の波が激しく、落ち着いて考える余裕がない状況になりつつあるのではなかろうかと危惧しています。この多難な状況を乗り越えて広島大学がますます発展してゆくことを祈ります。


出口を目前にして
大学院生物圏科学研究科 応用動物科学講座

平成16年 国立水産開発研究所 (Mar del Plata)にて(筆者右端)
中 川 平 介(なかがわ へいすけ)

 近所に本邦海洋学の草分けである丸川久俊氏が住んでおられ、子供ながら「海洋学」という心地よい響きに憧れて、十五歳から定年までの四十九年間を水産学分野に身を置きました。水産化学・製造学から始まり水産増養殖学、生態学、水環境汚染物質に関する研究に接しましたが、ついに「海洋学」の研究に携わる機会は得られませんでした。
 広島大学には昭和四十四年から在職し、定年という出口に差し掛かっています。出口のない自己満足的研究で良かった時代から、出口を見極めた研究への移行が求められています。自分の研究成果が国の内外に定着し、これが研究の出口となれば幸いです。
 写真は平成十六年、研究の出口を求めて養魚飼料の技術移転を目的としてアルゼンチンに出かけた際の打ち合わせの様子です。


老いたる馬は道を忘れず
大学院文学研究科 地表圏システム学講座

チャマン断層(パキスタン)に立つ筆者
中 田   高(なかた たかし)

 馬齢を重ねて、いつの間にか定年退職を迎えることになりました。先輩・同僚・学部生・大学院生に恵まれ、成果のほどはともかく、やりたい研究を行うことができたような気がします。自然地理学を文系学部で教えることで思うにまかせないことも少なくありませんでしたが、それでも何人かの優秀な研究者や技術者を社会に送り出すこともでき、大変幸せでした。
 広島高等師範学校附属小学校入学以来、カルカッタ大学や東北大学で過ごした十数年を除き、学部生・大学院生・教員として広島大学には四十五年もの長きにわたって大変お世話になりました。「老いたる馬は道を忘れず」と言われるように、これからも自分のなすべきことと、お世話になった皆さんや広島大学のことを胸に刻んで、とぼとぼと日暮れの道を進んで行きたいと思います。


ありがとうございました
財務部 契約グループ

写真は施設忘年会での美空ひばり
中 村 千 晴(なかむら ちはる)

 テレビで漫談師がしきりに発しています。あれから四十年若い頃はこうでした。いまはこの有り様ですと、さまざまな捉え方をし爆笑を誘っています。
 自分に置き換えてあれから四十年、よくぞ勤めたなと…爆笑ではなく涙顔であります。
 昭和三十九年、電車どおりに面して大学会館が竣功し、配属先が決定しました。
 いよいよ公務員のスタートです。
 木造の本部管理棟に詰め襟での通勤、広大紛争、理学部勤務七年、旧工学部跡地の管理、総合科学部での学部長刺殺事件の遭遇、貨車を購入し施設不足の対応、施設部での忘年会の余興、等々がかすめてきます。
 諸先輩をはじめ、多くの人に支えられての四十年ただ感謝するのみであります。
 アルバムでも整理し、節々で思いを巡らし、これからの糧とさせていただきます。
 健康面に気配りをし、常に挑戦の意識を持ち次のステップを探ってみたいと思います。
 紙面等で広島大学の情報を得たいと思います。
 広島大学のますますの発展を祈念いたします。
 長い間ありがとうございました。

【部局歴】庶務部人事課、学生課、医学部、理学部、歯学部、経理部管財課、総合科学部、施設部企画課、経理部契約課、財務部契約グループ


羽ばたけ世界の広島大学として
大学院保健学研究科 心身機能生活制御科学講座

学部生の卒業論文発表会の座長を務めている一コマ
奈 良   勲(なら いさお)

 平成四年に医学部に保健学科(看護学・理学療法学・作業療法学)が設置され、私は平成五年に金沢大学(理学療法学)から異動して十二年間勤務したことになります。理学療法学・作業療法学についてはわが国初の四年制大学における教育が実現したことで、広島大学にはたいへん感謝しています。その後、博士課程前期・後期も設置され、わが国の保健学を牽引してきたと思います。平成十六年四月には大学院保健学研究科と改組され、私にとりまして、この十二年間は極めて充実した教員生活でした。
 広島大学の予算額は旧帝大を除けば上位にあり、比較的斬新な教育・研究を展開しているとの印象があります。しかし、今後はますます「世界の広島大学」として認知されるべく、学生と教員の創造的活動がこれまで以上に展開されることを祈念しています。


アポトーシス
大学院生物圏科学研究科 附属瀬戸内圏フィールド科学教育研究センター

2004年のゼミ旅行の際、ふぐの本場の下関で、研究室のメンバー達と「ふく三昧」(筆者右から2人目)
難 波 憲 二(なんば けんじ)

 ご存知のように、生物が発達成長する際には、その生物の体を構成する無数の細胞のうち、すでにその果たすべき役割を終えた細胞は、次なる新しい役割を持った若い細胞とバトンタッチしてアポトーシスします。広島大学に学部学生の時代を含めると三十九年間お世話になった私も定年退職します。広島大学という大きな有機体の一細胞であった私が退職というアポトーシスをするわけです。広島大学という有機体のさらなる発達成長を祈りながら…。


言論の死を悼む
総合科学部 行動科学講座

オーストラリア人シェフと釣りに行ったら、大きなブラックバスが釣れた(筆者右)
難 波 紘 二(なんば こうじ)

 十年前、フォーラムを大改革した際に、モニター制を設け、学外者も依頼した。ユニークな科学文芸誌「ミクロスコピア」を出しておられる新潟の藤田恒夫教授にもお願いした。任期が終わる時、当時の渡邊勝俊係長に、「学外モニター経験者には、大学の宣伝を兼ねて今後も継続送付するように」と指示しておいた。それっきりこの件は忘れていた。最近ふとしたことから、教室の若い教授が藤田編集長から寄稿依頼を受けたのを知った。この雑誌は寄稿者に、養老孟司、多田富雄、丸山工作氏などがいて、医学生物学関係ではチト名を知られている。彼が本誌に書いた隨筆が編集長の目にとまり、それで依頼の電話があったわけだ。そこがいい。それがうれしい。大学広報誌はこれからも上意下達のつまらぬ広報誌に成り下がることなく、そういうふれあいの場を提供するものであってほしい。


夢に向かって
大学院教育学研究科 造形芸術教育学講座

難 波 平 人(なんば ひらと)

 広島大学に勤務して三十五年間、教育、研究に邁進できる環境を与えていただき、退職を目前にして感謝の気持ちで一杯です。
 私は絵画(油絵)の指導、研究に携わり、学生の多くの個性と出会えて幸せでした。「絵を描くことで自分の個性を確認し、自己実現を図れ」と言い続けてきました。時代がどのように変ろうとも自分の目標に向って貪欲にチャレンジしてほしいと思っています。
 私は退職を節目に、ライフワークである「世界の集落・遺跡」の絵画制作の集大成のためさらに世界を巡り、百歳までも絵を描き続けたいと決意を新たにしております。
 広島大学の益々のご発展を心からお祈りいたします。有難うございました。


私と被爆者研究の関わり
原爆放射線医科学研究所 放射線システム医学研究部門

2004年1月24日 広島大学名誉教授栗原登先生(右)と宮城県塩竃神社を参拝したときのスナップ
早 川 式 彦(はやかわ のりひこ)

 広島大学原医研に来たのは一九七七年で、既に二十七年を過ごしたことになります。疫学研究をしていたのが縁で、人に対する原爆放射線の影響研究に参加することとなりました。当時は医学の分野でコンピュータが扱える人が少なかったので、原爆被爆者データベース作成に協力をとのことでした。当時の汎用コンピュータのCPUは、今のパソコンの千分の一と非常に小さくちょっとしたファイル操作にも膨大な時間が必要でした。被爆者は十万人単位であり、複数の情報における同一人の同定には天文学的組合せの処理が必要でした。計量生物研究分野の大瀧慈教授の力を借りコンピュータにより人手を極力使わない処理のアルゴリズムを開発し、技官の隅田、平岡両氏、教室諸氏の協力の下、広島大学原医研被爆者データベースを完成させたことが大変懐かしい思い出として心に残っています。


統計学へのチャレンジ
大学院理学研究科 確率統計講座

研究室の人たちと合宿(瀬戸田町、筆者前列右から2人目)
藤 越 康 祝(ふじこし やすのり)

 昭和三十五年に広島大学理学部数学科に入学して以来、昭和四十六年からの七年間の神戸大学在職を除き、三十八年間お世話になりました。最大の関心事は、統計学を魅力的な学問分野にすること、この分野の研究教育体制を充実すること、でありました。
 本学には統計学の研究者が他大学に比べ充実していること、また、世界の各国にはこの分野の独立学科・専攻が設置されているが我が国には皆無であることもあって、後者の問題に深くかかわってきました。とりわけ、本学の将来構想・改組計画の度に、研究教育体制の在り方を模索して来ました。何分力不足のため、独立専攻の設置までには至っていませんが、この間多大なご協力・支援を頂きました。お陰で、充実した研究教育生活を送ることができ、深く感謝申し上げます。


退任をむかえて“残したこと”
大学院医歯薬学総合研究科 病態薬物治療学講座

2004年10月 広島空港へのレクリエーション
(筆者前列左から2人目)
藤 村 欣 吾(ふじむら きんご)

 卒業した昭和四十一年前後の年は青年医師連合運動に末席を占め、前代未聞の医師国家試験ボイコット運動に不安の気持ちを抱きながら参加し、曲がりなりにもノンポリ精神に筋金が入ったような錯覚に陥りましたが、以後の生き方に影響した貴重な時期でもありました。その後約十年単位で研究、臨床、役職に没頭したり、部門を変わったり結構気分転換を行いながら過ぎ去った気がします。中でも九年前医学研究から薬学教育研究へ移ったことは国試ボイコット運動とともに最も激変でした。元来臨床医学に傾倒する小生にとって、診断、治療効果の答えが出やすい臨床に比べ結果や効果が迅速に出ない教育のもどかしさを身にしみて感じた時期でもありました。学生の心に火”をつけることなく退職を迎えることに晴れのち曇り”の心境です。
 長い間お世話になりました。


語学教育の行方は?
外国語教育研究センター

言語文化関係の懇親会旅行でフランス語の平手先生と(筆者左)
本 田 和 親(ほんだ かずみ)

 就職委員を二期つとめて多くの企業で人事担当者から耳にしたことは、広大生が語学に弱いということでした。広大での三十二年の間絶えず改革と称する渦の中にいましたが、こと英語以外の語学に関しては改革とは縁遠いもので、大学全体の雰囲気は明らかに外国語(特に英語以外)軽視と言っても過言ではなかった感がします。かつて二名いたロシア語の教員が一人もいなくなったのはその端的な証拠です。受講者数が少ないという効率論だけで処理されるならいつまでも「語学に弱い広大生」の汚名は消えないでしょう。語学教育は学生数が少ないほど効果が上がるという原点を忘れないでほしいのです。広大を去るにあたって、いつの日か「語学にも強い広大生」が育つことを心から期待しています。


お世話になりました
大学院教育学研究科 技術・情報教育学講座

平成8年3月美術科卒業 毛利知子さん画
間 田 泰 弘(まだ やすひろ)

 長い年数をふり返ってみると、無駄な時間を過ごしていた時期、昼食をとる時間もないほど忙しい時期などいろいろでしたが、いずれの時期も反省することばかり思い出されます。四月から反省の材料が少なくなるだろうと思えば楽しみです。
 沢山の先輩、友人、学生の皆さんに迷惑をかけながら育てていただきました。また、組織の構成員の立場でも多くの方から支援をしていただきました。
 心豊かであった方々に心から感謝しています。
 これからますます教育、研究、運営、社会貢献に対する機能が求められるようですが、目立たない部分でも真に偉大と思われる大学像をめざして発展されるよう祈念しています。


産学官連携活動に携わって
産学連携センター

第1回「広島大学リエゾンフェア2003 in 東京」の展示ブースにて(筆者左)
松 井 亨 景(まつい みちかげ)

 2001年2月1日に旧称「地域共同研究センター」(現在の産学連携センター)に参りました。近年、大学の社会貢献が重要視される中で、短期間の内に広島大学の産学官連携の実績を上げるべく、大学独自のリエゾンフェア開催や、近隣市からのリエゾンフェロー派遣、知的財産社会創造センター設立など様々な新しい企画に注力して参りました。この三年間に、共同研究の数や包括的共同研究などの実績を大きく進展させることができた結果に満足しています。教育・研究面では、研究開発や知的財産などMOT(技術経営)の講義を担当致しました。広島大学は、教育・研究・社会連携いずれも大きなポテンシャルを有しています。今後とも、これらの「知」の財産を社会に還元することにより、大学と社会が共に発展していくことを期待致します。


広島大学の一層の発展を祈ります
大学院生物圏科学研究科 食資源科学講座

研究室の旅行で若い人たちと(筆者前列左から2人目)
宮 澤 啓 輔(みやざわ けいすけ)

 広島大学に赴任して三十八年が経過しました。この間、赴任して間もない頃の大学紛争から改革に向けて学部改組、研究科の整備、福山から東広島への移転、法人化までの流れの中で、瀬戸内海の水産物を対象として教育・研究を行い、夢中で過ごした感があります。大学は時代の要請に従い大きく変わってきたと思います。この中にあって何とか定年まで勤めてこられたのは先輩、同僚の皆さま、お付き合い頂いた職員の方々、学生諸君のおかげと感謝しております。
 大学は若い人たちが学問に志し、また社会に羽ばたく準備をする場だと思います。若い人が自由な勉強をし、余裕をもって自己の力を涵養する環境であり続けて欲しいと思います。広島大学と生物生産学部、生物圏科学研究科の一層の発展を祈ります。


病棟とともに三十数年
大学院医歯薬学総合研究科 病態制御医科学講座

病棟にて(座っているのが筆者)
夜 陣 紘 治(やじん こうじ)

 昭和三十六年に広島大学医学部に入学以来四十三年、この内、学外にいた約十年を差し引いて三十年余りを広島大学にお世話になりました。私共、臨床系の教室に籍をおく者は、一日の大半を病棟で過ごしています。医学部生時代の耳鼻科病棟は、レンガ造りの古い建物でした。冷暖房施設などなく夏は暑く冬は寒い条件下で先生方、看護婦さん方は忙しく働き、患者さんはどこまでも我慢強く耐えて病気と闘っていました。卒業時(昭和四十二年)八階建ての冷暖房完備の新病棟が竣工し爾来、この病棟は不出来な私を一生懸命育ててくれました。そして平成十五年一月、十一階建ての近代的な病棟にバトンタッチして、自らは総合研究棟となり新しい使命の担い手となりました。暖かく見守ってくれた三病棟とお世話になった多くの職員の方々に心より感謝いたします。


空! 石! 虚! 木!
財務部 経理グループ

平成14年11月 アンコールワットを背景に
安 田 公 臣(やすだ たかとみ)

 昭和三十八年三月一日に島根大学に採用されてから、広島大学を定年退職する平成十七年三月までの四十二年一カ月、この間いろいろなことがありました。思い出に残ることを三つあげると、島根大学での大学紛争、島根医科大学の創設準備、広島大学で本番を迎えた国立大学法人化です。いずれも生涯忘れることがないであろう強烈な出来事です。
 国立大学、高等専門学校に一貫して勤務し、残り数ヶ月となった今の気持ちは、就職して一年も経たない頃、夢の中に浮かんだ「空! 石! 虚! 木!」の八文字です。当時、この言葉の意味や背景をいろいろと考えましたが、全く思い当たりませんでした。今回の原稿依頼時に、ふっとこの言葉が蘇ってきたのですが、現在の心境にピッタリという思いです。広島大学の皆様、お世話様になりありがとうございました。

【部局歴】経理部経理課、財務部経理グループ


お世話になりました
総合科学部 数理情報科学講座

留学先での私のアパートで、ストング教授と歓談しているときの様子(筆者左)
吉 田 敏 男(よしだ としお)

 東京五輪の二年後に、本学・理学部の助手に採用して頂き、教養部講師を経て総合科学部で定年を迎えるまで、教職員の皆様に様々なことで大変お世話になり、有り難うございました。深く感謝し、厚くお礼を申し上げます。
 最近、書籍・書類等の整理をしていますと、その当時の様子が懐かしく思い出されます。文部省在外研究員として米国・バージニア州立大学へ留学させて頂き、著名なストング教授に位相幾何学のご指導を賜ったことは私の宝物です。また、数学の教育において、伸び盛りの学生には、計算技術の習得だけでなく、基礎理論とその応用方法とを心掛けて参りましたが、そのバランスをとるのが難しく感じました。
 皆様から賜った有形・無形の様々なことを定年後の人生に活かしたく存じます。広島大学の更なる発展を願って止みません。


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