2000字の世界

何のために?

文・写真 中西 利恵(Nakanishi, Toshie)
大学院社会科学研究科



筆者 筆者左側


 「ロシア語を勉強している」と言うと、家庭教師先の高校三年生が「何のために」と聞くのです。「なぜ」と聞かれたことはあったけれど、「何のために」と聞かれるのは初めてだったので、私は思わず言葉に詰まってしまいました。けれども、彼のその一言で私はある問題について改めて考えさせられることになりました。「何のために」。それは、私がこの数年考え続け、いまだに答えの出せない問題だったからです。
 毎日の勉強による出会いは、驚きの連続です。人類の歴史はたかだか二百万年。 一五〇億光年という宇宙の存在に比べれば、ノミのフンみたいなものです。しかし 、その取るに足らない人類の所産でさえ、その全てを知ることは不可能です。私は 小さな窓から人類の歴史の片鱗を窺い知ることしかでき ません。けれどもそこに確かに息づく人の生を見るとき、それがすなわち自分の生 の証のように感じられるのです。計り知れない広い広い世界のその向こうにさらに 広がる無限の宇宙。私はその宇宙のひとつの構成要素なのだ、と感じる瞬間「勉強 していてよかった」と心から思うのです。
 しかしそんな感傷的な考えは、十八歳の現実的な質問の前には何の役にも立ちま せん。何よりも私自身、先に書いたようなことは理想に過ぎず、今は、この先どう やって生きていくのかという問いに答えなければならない時期だということを、痛 いほど認識しているのですから。
 「何のために就職するのか」という問題に答えが出た友人は皆社会に出て行き、 出なかった私はこうして、将来の指針も持たずに学生というぬるま湯にどっぷりと 浸かっています。いつまでもこのままでいいはずはありません。夢から覚 めて、そして、「何者になるか(どういう人間になるか)」を決めなければ …。現実的な「何者」かになる必要があるのです。「社会に貢献する」といった大 義名分を持った人間になることが求められているのです。でも、それがわからない 。どういう人間になればいいのかわからない。誰のために、何のためになればいい のかわからない。
 たとえ、それがその人を悲劇的な死に導くものであったとしても、いわゆる「天 職」を得てそれと運命をともにできる人は幸せです。しかし、学問の入り口でウロ ウロと迷っている私のような人間にとって、「天職」などという言葉は文字どおり 雲の上のもので、「天職」探しに全てを賭けるほどの裁量も度胸も持ち合わせては いないのです。せめて、どういう職に就くかを決めるきっかけさえつかめればいい のに。
「何者にもなれないと思い悩むところには、ものすごい可能性があるのです」。 大学時代、講義中にある先生がポツリとこうおっしゃいました。レフ・トルストイ と宮沢賢治の文学を比較考察する授業でした。思い悩んでいるという自覚はなかっ たものの、その頃すでに「何者にもなれない」という、漠然とした焦りを抱えてい た私には、大きな衝撃でした。衝撃の後に、肩の力がふっと抜けるのがわかりまし た。大学院に進学する決心がついたのはその時です。その言葉は今でも大切な宝物 です。(しかし、何者にもなれないことを可能性に変えるためには、大いに悩まなければ ならないのです)
 結局、「何のために」という質問に答えることはできないまま、私は勉強をする のです。「何でもいいからこの質問に答えろ」といわれたら、「何のために勉強し ているのかを知るために勉強しています」と答えることしかできません。少なくと も今は…。
 それにしても、高校生の彼には、「ロシア語を勉強している二十三歳の女」なん てのは、よほど未来のないものに見えるのでしょうか。そりゃ、十八歳よりは有望 でないことだけは確かですけれど…。でも、何でも現実的な目的に照らしてみない と行動に移せないのであれば、それはそれで、随分悲しいことだと思います。「何 のために」するともなく、ただ「のほほん」と勉強している私は、あるいはとんで もない幸せ者なのかもしれません。
 でも、「勉強を何かの手段にしたくない」なんて言ったら、「甘いっ」って叱ら れてしまうな、きっと。



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