自著を語る
分割相続と農村社会
文 坂根 嘉弘
「二つの思い」
筆者は、広島大学に転任するまで六年半のあいだ鹿児島大学に勤務していたが、その間、鹿児島に関してぼんやりとではあったが幾つかの思いを抱いていた。
そのうちの一つは、従来の研究や一般的な論説における鹿児島の位置づけについての不満であった。鹿児島における他地域と違った事柄を評する際に、どうも鹿児島のそれを「特殊」「特異」といったかたちで位置づけ、簡単に片づけてしまうということが多々みられたのである。いま少し何とかならないだろうかという思いである。つまり、従来、鹿児島的な「特殊」性・「特異」性というかたちで位置づけられ評価されてきたものを、何らかのかたちで一般的な・普遍的な把握・評価に組み替えられないだろうかという問題である。
二つ目は、鹿児島社会は一般に「男尊女卑」「封建的」「前近代的」といった、鹿児島にとってはあまりありがたくない、ある一定のイメージで語られる場合が多いが、そのわりには実際鹿児島で暮らしてみるとどうもそれとは違った感触をえるという点であった。その感触を強いて言葉で表現するなら、何となく「温かなおおらかさ」とでもいったものであろうか。すでに形成されている一定のイメージとは異なる、この何となく「温かなおおらかさ」とは何であろうか、これが二つ目の思いであった。
本書をまとめる際に常に気になっていたのは、鹿児島における生活者としての、このぼんやりとした「二つの思い」であった。
鹿児島地方の分割相続
さて、鹿児島地方(旧薩摩藩領)では、明治以降でも兄弟など複数の相続人に財産(主に田畑)を出来るだけ均分に分割して相続させる分割相続慣行がみられた。
財産分与の対象となるのは、原則として男子のみであり、分離した各世帯は基本的に別居・別食・別財である。農業経営も別になる。ただ、老夫婦が独立した世帯を維持することが難しくなると、末子(の場合が多い)が老夫婦の面倒をみ、老夫婦の財産(隠居分)は末子が引き継ぎ、位牌元となる場合が多い。
このような分割相続地帯は鹿児島地方から奄美諸島、琉球諸島にかけて広がっている(ただし、相違もある)。
「二つの思い」への答え
『分割相続と農村社会』と題した本書で取り上げたのは、このような鹿児島地方における分割相続であり、そのもつ社会経済史的な諸問題を考察することであった。その際の問題関心は、分割相続という族制上の問題がいかなる規定を農村社会や農村経済に与え、社会経済の発展にどのような影響を与えるのかを、比較史の視点から社会経済史的に考察するという点にあった。
以下、本書の概要を述べねばならないのであるが、ただ、あまり専門的な経済史の問題に立ち入らないほうがいいと思われるし、紙幅の余裕もないので、取り急ぎ、冒頭に記した「二つの思い」に即して「自著を語る」ことにしたい。
鹿児島地方の分割相続慣行については、従来、特殊鹿児島的な現象とみる見方が一般的であったが、このような評価について大きな不満を持っていたことは冒頭に記したとおりである。
この問題については、わが国で近世前期まで全国的にみられた分割相続が、薩摩藩独自の支配制度(門割制度など)や土地が自由財的側面をもちえた資源賦存状態などもあり、その後も存続していったものであることを論じ、また、分割相続がみられる東南アジア社会の家族・親族組織や村落構造との共通性で把握できるのではないかということを指摘した。その意味で、鹿児島地方の分割相続はけっして特殊鹿児島的な現象ではないのであり、このことは中国儒教文明の影響下にあった朝鮮、ベトナム、沖縄、奄美、鹿児島、日本などの異同を考える上でおもしろい問題を提起している。
鹿児島農民社会では、分割相続の故に、他地域では近世中期頃までに成立した日本的な「家」制度が未成立で曖昧であり、ために農民層の流動性が一貫してかなり高く、他地域でみられた自治的な「村」の成立が十分にみられなかった。タイ研究の表現を使えば、いわばルースに組織された社会と言うことができよう。
冒頭に記した「温かなおおらかさ」こそは、このルースに組織された社会に起因しているのではなかろうか、というのが現在の感触である。つまり、鹿児島社会についての一定のイメージは、すべて士族社会に由来するものであったのであり、ルースに組織された農民社会に固有に由来するものではなかったのである。
(A5判 二一五頁)
四四二九円
一九九六年 九州大学出版会
プロフィール
(さかね・よしひろ)
◇一九五六年京都府生まれ
◇一九八四年京都大学大学院博士課程修了
◇一九八九年農学博士(京都大学)
◇学位論文『戦間期農地政策史研究』(九州大学出版会)。日本農業経済学会賞受賞。
◇所属=経済学部歴史経済科学講座
◇専門=日本経済史
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