コラム

高等教育セミナーに参加して(5)




 飯島元学長が高等教育「画一化」の具体例として挙げたのは教養部解体であった。
 「臨教審は、一般教育と専門教育の壁をもっとフレキシブルなものにすべきであり、そのためにもっと自由な学部の構成を考えるようにと言ったのである。教養部が必要ないとは言っていない。日頃から潰してしまいたかったものは潰してしまえということになったのだろうが」。
 平成四(一九九二)年度以降、従来部局として存在した教養部の改廃が相次いでいること、これが「大学設置基準の大綱化」を直接の背景としていることは周知のとおりである。
 かつて新制大学発足に伴い、旧帝国大学のほか(但し、東京大学は当初から教養学部設置)、本学でも、一般教養の教授組織として「教養部」「一般教養部」が学内措置により設置された。昭和三十八(一九六三)年三月の「国立学校設置法」の一部改正では、北海道大学を除きその多くが部局化を図っている。結局、文理学部・学芸学部等で一般教養に対応していた機関を含め、同年から六年間に教養部を設置した大学は三十二校である。「大学紛争」直前のことであった。
 ただ、本学が昭和四十九(一九七四)年に総合科学部への改組=学部昇格を図っているように、教養部が抱える問題は少なくなかった。教官の立場としては、卒業生を出せず研究費も潤沢でない。学生からは中等教育のレベルアップを背景に、内容が高校の延長であり、専攻外のことまで要求されることへの疑義である。
 臨教審第二次答申が、「大学教育の充実と個性化」について、「一般教育と専門教育を相対立するものとしてとらえる通念を打破し、両者を密接に結び付け、学部教育としての整合性を図るとともに、高等学校教育との関連や接続に十分配慮しなければならない。…(中略)…一般教育を担当する教員組織の区分や構成についても、教養部等の見直しを含め、適切な措置を講ずる必要がある」としていたことは確かである。以後、大半が一般教育(教養的教育)を単一部局による担当から全学的対応に切り替え、本学もその線に従い、今年度より新カリキュラム、全学体制で臨んでいる。新制四十九年目の転身である。
 「ただ問題は、果たして中身の改革はできたのかということである」(飯島氏)。教育の枠組はできたとして、教えるのは、やはり教師個人であろう。管理運営問題、自己点検のあり方も含め、高等教育機関に託された課題はなお少なくないようである。(了)
(広島大学調査室 橋本 学)



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