広島大学ブレインサイエンスシンポジウム

−学際的脳研究プロジェクトの展開−

文・写真 筒井 和義
  総合科学部人間行動研究講座 教授



 二十一世紀の科学としてその発展が世界的に期待されている脳研究に取り組むため、総合科学部は昨年、学際的脳研究を推進する総合科学研究プロジェクトを発足させた。このプロジェクトには、理学部などの研究者も加わり、共同して脳研究を行っている。本年三月にプロジェクトの成果の報告が、広島大学ブレインサイエンスシンポジウムでなされた。このシンポジウムには国内外の脳研究の第一線に立つ研究者も多数参加した。
 本稿では、学際的脳研究プロジェクトの発足に至る経緯と広島大学ブレインサイエンスシンポジウムの内容を紹介するとともに、広島大学における脳研究の今後の展望を述べる。


はじめに

 脳は最も魅力に満ちた生体器官であり、その研究の歴史は古い。歴史上で「脳」という言葉で脳の記載がなされたのは紀元前にさかのぼる。時代の移り変わりとともに、さまざまな脳観が現れ、その多くは消えていった。有名な哲学者であり生物学者として知られているアリストテレスも、「脳という物体」が「血液を冷やす冷却器」のようなものであるという誤った説を唱えた一人であった。
 確かな論拠なしに簡単に、説を唱える人はいないと思うが、脳の誤った理解の主な要因はその当時の貧弱な科学技術によるものと思われる。
 現在、科学技術の進歩と相まって脳に関する知識は増大し、情報中枢である脳の姿が徐々に具体化されるようになった。たとえば、われわれヒトを含めた動物には共通して本能が存在する。この本能に従って現れる個体の反応が本能行動であり、この本能行動を制御するのが脳である。また、ある種の動物では、本能の他に学習したり記憶する能力が備わっている。最も進化した動物であるヒトには、さらに思考したり、創造するいったきわめて高度な能力さえある。これらの能力を生みだ すのも脳の働きである。
 一方、人間の精神は知・情・意で構成されているとデカルトの時代から考えられてきた。知・情・意を司る「こころ」の場が脳である。しかしながら、脳に存在する本能の制御システムや学習・記憶のメカニズムの解明にはまだ時間が必要である。さらに、「こころ」の実体については、ほとんどの部分が謎として残されている。



二十一世紀の課題、脳研究の推進

 以上述べたように、脳に存在する本能や学習・記憶の制御システムや「こころ」の実体の解明は、これから二十一世紀にかけて残された重要課題である。この課題と取り組むためには、脳研究をどのように推進したらよいのであろうか。
 脳研究の最大の特徴は、きわめて学際的であることである。脳機能の解明には、伝統的な学問分野である生理学、形態学、薬理学、心理学、精神医学などに加え、分子生物学、細胞生物学、生化学、生物物理学、神経行動学、認知科学、情報科学などの多くの関連研究領域の研究手法が必要となる。
 従って、諸科学の共働と統合化がこれからの脳研究の推進に不可欠な条件である。既に欧米では、脳研究の学際性に着目し、多くの大学や研究機関に脳研究を推進するための教育研究体制が重点整備され、それらを拠点として世界をリードする研究が開始されている。



学際的脳研究プロジェクト

 全国に先駆けて一九七四年、広島大学に学際型の学部として総合科学部が設立された。総合科学部の基本理念は、分化した諸科学を統一する視野に立ち、学術の本質の解明を目指した総合的、学際的な教育研究を推進することである。
 この学部理念にもとづいて、一九九六年には学際的脳研究プロジェクト(総合科学研究プロジェクト)を発足させた。このプロジェクトのテーマは「脳を知る:諸科学の共働と総合化」であり、プロジェクトは当面、「本能と学習・記憶の制御システムの多角的解析」を行う。脳を分子、細胞、神経回路の各レベルで解析し、重要な脳内分子を同定する。続いて、本能の制御や学習・記憶にどんな細胞や分子がかかわり、どんなネットワークを形成しているのか、などを解明し、その理論体系を作り上げることを目標としている。プロジェクトには総合科学部の他に理学部などの研究者も加わっている。


広島大学ブレインサイエンスシンポジウム


写真1 ブレインサイエンスシンポジウムで
脳研究の必要性を述べる原田学長

原田
 今年三月には、プロジェクトの一年間のまとめとして「ブレインサイエンスシンポジウム」を開催した。シンポジウムには、広島大学からは総合科学部をはじめ理学部、医学部、生物生産学部、教育学部、RIセンターなどから、また学外では東京大学、上智大学、名古屋大学などから、さらには国外のミネソタ大学(アメリカ)とマクギル大学(カナダ)から約一五〇名が参加した。
 シンポジウムでは、原田康夫学長の挨拶(写真1)に続いて、「本能と学習・記憶の制御システムの多角的解析」についての発表がプロジェクトメンバーを中心になされた。小脳の記憶ニューロンでつくられる新たな脳内分子のニューロステロイドの作用機構、小脳における新概念情報伝達分子の一酸化窒素の合成機構、記憶におけるシナプス情報伝達の解析、本能を制御するさまざまな脳内分子の同定と作用機構、リズムの時間心理学的解析など、多くの優れた成果が報告された。
 シンポジウムの最後のセッションでは「二十一世紀のブレインサイエンス」について意見交換がなされた。青木清教授(上智大)、川戸佳教授(東京大)、宗岡洋二郎教授(総合科学部)、小林英司博士(全薬工業研究所顧問、東京大・名誉教授)から、それぞれの分野を代表して提言がなされ、これを受け、生和秀敏学部長(総合科学部)が広島大学における脳研究の展望を述べて、シンポジウムは閉会した。
 ブレインサイエンスシンポジウムは、続いて八月に第二回、十一月に第三回を開く予定になっている。これらのシンポジウムでは、脳科学の権威のアーサー・アーノルド教授(カリフォルニア大学ロサンゼルス)など世界の第一線に立つ研究者を招く予定である。



広島大学における脳研究の展開

 本年三月に文部省学術審議会バイオサイエンス部会が重要な報告をした。その報告には、脳研究は学術的・社会的意義が大きく、二十一世紀における最も重要な研究課題とされている。そして、脳研究の目標達成には、研究の施設整備、最先端の研究設備導入、総合科学的観点からの研究体制の構築などが指摘されている。
 総合科学部から始まった学際的脳研究プロジェクトは、昨年の八名が今年は十三名に増えた。いずれのメンバーもさまざまな視点から脳に関わる第一線の研究者である。いまのところ、このプロジェクトは学部の学際性という性格から総合科学部が中心であるが、今後の広島大学における脳研究の重点的推進には、学部・研究科の壁を超えた学部横断型の研究体制の充実がさらに必要である。



おわりに

 脳を知ることは、生命科学の最終的な課題の一つであるが、同時に、心理学や哲学などの重要課題とされてきた「こころ」を知ることでもある。従って、大学における脳研究の推進には、自然科学的な側面を充実させるとともに、将来は自然科学と人文・社会科学との融合した体系づくりも必ず必要となってくる。異なる分野の研究者間でも理解可能な言葉で話し合い、細分化された枠を超えた体制が広島大学に構築されることを望む。



プロフィール

筒井 (つつい・かずよし)
◇一九五二年生まれ
◇早稲田大学理工学研究科生物物理学専攻(理学博士)
◇一九九三年二月から本学勤務
◇専門は、脳科学。現在、総合科学プロジェクト「本能と学習・記憶の制御シス テムの多角的解析」を実施している。



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