ユスリカ
−その驚くべき適応力−

文・写真 河合 幸一郎(Kawai, Koichiro)
中央廃液処理施設助教授

   世の中には人の役に立つものと人に害を与えるものがあるが、ユスリカという虫はどちらにも当てはまらない。本来、人間生活とは全く関わりのないところで生まれては死んでいく、と言ってしまってもいいような取るに足らない虫である。
 しかし、その「どうでもいい虫けら」に私は心から敬意を表し、時にはまさに「可憐」という用語以外のどのような表現も私の脳裏から完全に排斥されてしまうことさえある。すなわち、既に、この十五年ほどの彼らとの付き合いが私から正常な美的感覚を奪い去ってしまったと推察される。それほどに「どっこい生きている」(当研究室初代教授 林 知夫先生の「生態学」を最も簡潔に表現するTechnical termである)やつらなのである。



太く、短い、一生

 ユスリカは、カと同じく双翅(そうし)目に属する昆虫で、幼虫が水底で体をユラユラ揺すっている(体表面に常に酸素の豊富な水を送るためと考えられる)様子からこの和名「揺蚊」がつけられたらしい。
図1

 幼虫は図1に示したようなどちらが前だか後ろだかわからないような細長いイモ虫状であり(よく見えなくても立派な頭部をもっているのですが)、水底に堆積した有機物や石面上に繁茂した藻類等を食べて急速に生長し、蛹(さなぎ)を経て成虫(図2)になると、食物も取らず(生き血を求めてさまよう蚊とは大違い)「蚊柱」を作って華麗に乱舞しながら交尾し、産卵を終えるとともに息絶える、というような太く短い一生を送る。
図2

 日本でも既に七百種近くが記録されており、まだまだ本邦未記録種あるいは新種が発見される気配が大である。いくら地球上で最も繁栄している節足動物の一群だとは言っても、たった一つの科でこれほど多くの種を含む(単系統であるという仮説が正しければとてつもない適応放散を為し遂げた)動物群は少ないであろう 。
図3

 しかし、その分類は、自分が異常なのか周りが異常なのかの正確な判断能力をなくしてしまう直前まで耐え続けられるほどの忍耐力を要求する。特に羽の構造や雄の交尾器の形態(図3)等が種の検索上重要な形質であり、学生の頃には他の節足動物が無断で無数に同居している安アパートにはあまり帰らず、一日十二時間以上虫の腋の下や股間を一心に見つめていたような記憶がある。
 





驚くべき適応力

 さて、私が最初に彼らの適応力の凄さに敬服したのは、宮城県の潟沼(かたぬま)を訪れた時であった。潟沼は日本一、いや世界一pHの低い淡水湖古い文献によればpH一・四、近年は少し高くなっているらしい)で あり、勿論魚は一匹も住んでおらず、数種の藻類および双翅目昆虫のみからなる極めて貧弱な生物相をもつ。
 このうち、底生動物として幅を利かしているのがユスリカの一種、Chironomus acerbiphilusであり、時期によっては生息密度は一万個体/平方メートルを超える。この種は真っ黒の体色を呈するが、体色以外の形態的特徴は我国の都市下水溝等に最も普通に見られるChironomus yoshimatsuiセスジユスリカに酷似する点が興味深い。おそらく、潟沼周辺の下水等に住んでいたセスジが“超”低pHに適応して分布域を拡大した後、生殖隔離が起こって生じた種であろう。
 次に私を驚かせたのは雲仙の温泉水中にウジャウジャ犇(ひし)めきあっているChironomus fascicepsという種であった。少し熱めのお風呂ほどの湯が流れている川沿いの建物等にもびっしりと成虫が体を休めていたのである。
 さらにとんでもない奴は富栄養湖や過栄養湖として悪名高い霞ガ浦の湖底の支配者、Tokunagayusurika akamusiアカムシユスリカである(図4、これはワカサギ釣りの餌として珍重されると同時に、成虫の大量発生により窒素量として年間四十六トンもの有機物が湖外に除去されると見積もられていることを考えると、むしろ役に立つ虫かもしれない)。
ヨ図4 アカムシユスリカ雄成虫 図4

 平地の場合、比較的浅い湖でも真夏には成層化が起こり、循環が悪くなるため、底層水には酸素が供給されにくくなる。一方で、富栄養湖では湖底に堆積している大量の有機物の分解のために、急速に酸素が消費されていく。このため、底泥直上ではほとんど溶存酸素がゼロになる。
 ところがなんとこのユスリカは、このような真夏の富栄養湖の底泥中、しかも四十〜八十センチもの深い泥(おそらく毒性の強い硫化水素を高濃度で含んでいる)の中で生活するのである。その理由は彼らが体液中に高濃度のヘモグロビン(Hb)、しかも極めて酸素親和性の高いHbを持っているからであろう。また、もしかしたら、深海のハオリムシのように酸素と硫化水素をそれぞれ別々に運搬するHbを持っているのかもしれない。
 ただ、このような酸素がほとんどない真夏の底泥中では、彼らはむしろ休眠生活をしており、水温が低下した晩秋になって活動を再開して成虫になり、その子供たちは他の底生動物の活動が衰える真冬の間にせっせと有機物を食べ、水温が上昇し始めるまでに急速に生長して終令幼虫になってしまうと考えられている。
 また、Chironomus salinariusシオサイユスリカという種は、名前が示唆するように海水に適応した種であり、ある文献によれば、海水の数倍もの塩分濃度でも平気で生活できるそうである。私もこの種を累代飼育していた際、人工海水で育てた終令幼虫を急に水道水に入れても全く元気で「揺蚊」しており、その浸透圧調節能力にびっくりしたのを覚えている。
 そしておそらくユスリカの中で最も大胆な挑戦を為し遂げたのは畑や土手の土から羽化するSmittia aterrimaを代表選手とする陸棲種のグループであろう。他の仲間はいくら生息範囲を広げたとはいえ一応水圏に留めたのに、彼らは再び陸圏を制覇したのである。しかも、人間活動の影響の大きい公園などの土と 人がほとんど踏み込んでいない原生林の林床の土とでは住んでいる種が全く違うと いうから面白い。


繁栄の条件

  しかし、ここで、自分も一応【動物生態学】を教えている身分であることを思い出してユスリカのこのような地球上での繁栄を冷静に解析してみると、少なくとも三つの要因が浮かんでくる。
 一つは体が小さいこと(ほんのわずかなスペースでも住みかとして利用できる)、もう一つは生長が速いこと(環境に適応した個体が淘汰されるスピードが速い)、そしておそらく最も重要な要素は、幼虫の体制が特殊化していく方向には進化しなかった(成虫の形態は似ても似つかない種間でも、幼虫の形態では口器を中心とした頭部の分化を除いてほとんど違いが見られない)ことではないかと思われる。
 この「特殊化してしまわないこと」、「ある特定の環境で特定の生活様式でしか生きられないようになってしまわないこと」、もっと広く解釈させて頂ければ(相当無理があるとは思うが)ある領域で自他とも認めるバリバリSpecialist(専門家)になっていても、いつでも一旦Generalist(何でも屋)に戻ることができること、が繁栄し続けるものが持つべき特性ではないかと思う。
 私には、したたかに生きているこのユスリカという小さな虫けらたちが、我々人類が、人類を含めた辛うじて現存している全ての生物にとって棲すみやすい地球を護り続けてゆくためのヒントを与えてくれているような気がしてならないのであります。



河合

 プロフィール
◇一九五八年生まれ
◇生物生産学部助教授
◇一九八七年富山医科薬科大学大学院医学研究科環境系専攻修了
◇医学博士
◇現在の専門=動物生態学、特に渓流環境の多様性と動物群集の 多様性との関わりに興味を持っています。


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