現地で見て感じた「香港返還」

文・写真 丸屋 豊二郎(Maruya, Toyojiro)
アジア経済研究所海外調査員(香港在住)

 

香港返還その日

 今世紀最後の歴史的イベントといわれた「香港返還」が七月一日午前零時、世界中の人々が見守る中で行われた。アヘン戦争を契機にこれまで続いてきた英国の植民地統治が終わりを告げ、香港は一五五年ぶりに中国へ復帰したのである。これによって、香港は今は亡きとう小平氏が提起した今後五十年間の資本主義体制を保障する「一国二制度」のもとで新たなスタートを切った。
 一連の返還儀式は六月三十日夕方から七月一日未明にかけて小雨がパラつく中で行われた。三十日午後四時、最後の総督であるパッテンが家族とともに英国の植民地統治を象徴する総督邸を後にし、六時過ぎにはタマール基地でチャールズ皇太子、ブレア首相、パッテン総督らが出席し盛大なお別れ儀式を行った。
 一方、中国側は一日未明からの儀式に備えるべく、江沢民主席と李鵬首相が午後五時過ぎに歴代中国首脳としては初めて香港(啓徳空港)の地を踏んだ。そして両国首脳が出席した主権返還式典は三十日十一時四十五分から一日零時十五分までわずか三十分程で終え、中国側は引き続き、英国外相と米国国務長官欠席のも とで特別行政区成立宣誓式を行った。
 中英両国首脳出席による主権返還式典をできるだけ簡単に済ませ、両国がそれぞれ別個に返還儀式を行った背景には、パッテン総督の政治改革に端を発した政治対立が尾を引いたと言われる。しかし、その根底にはもっと根深い両国の歴史解釈の相違といったものを感じた。
 実は香港返還は八四年の中英共同宣言で合意したものの、香港の植民地統治を巡る歴史問題について中英両国は合意に至らず、平行線のままである。つまり英国は香港植民地統治の根拠となった三つの国際条約の有効性を主張しているのに対し、中国はこれを不平等条約であるとして一貫して拒否している。中英共同宣言の冒頭に「中国は香港に対し主権行使を回復する」「英国は香港を中国に返還する」と両論併記に留めていることが何よりの証拠である。


当事者抜きの返還セレモニー

 こうした英国と中国の主張は式典の隅々に現れていた。まず、チャールズ皇太子が「英国的価値観と制度は香港に権利と自由をもたらした」と英国統治の成果を自賛、パッテン総督も植民地統治のきっかけとなったアヘン戦争について「香港の物語はいくつかのできごとで始まったが、百数十年経った今、弁解を求める人はいないだろう」と過去の歴史をさらりと流してみせた。
 これに対し、江沢民主席は「これは中華民族全体の喜びであり、世界平和と正義の勝利である」と力強く主権宣言した。このように英国は「名誉ある撤退」を演出し、中国は「祖国復帰」を強調したのもそのためである。
 また、返還式典は英語と北京語だけで行われた。これは率直に言って外国報道陣だけでなく、香港人までも驚いた。香港の人々は通常広東語を話し、英語、北京語を正確に解する人は半分にも満たない。返還交渉については最初から一貫して当事者である香港を排除して中英両国間で進められてきたが、返還最後の歴史的イベントまでが当事者抜きで行われた。
 同様に特区成立宣誓式も中国スタイルでかつ北京語で行われた。初代行政長官である董建華氏が江沢民主席に、特区高官が李鵬首相に、それぞれお世辞にも上手と言えない北京語で宣誓する様子がテレビに映し出された。
 外国人の記者の中からは「『一国二制度』がどこにも感じられない違和感に満ちた儀式」との感想も聞かれたが、これまで国家意識のない香港人に対し、国家あるいは主権返還の持つ意味を強烈に焼き付けた儀式であったことは確かである。


いたって冷静な対応

 それでは、主権返還を香港の人々はどのように受けとめたのであろうか。返還直前まで普段と変わった様子はなかったが、六月二十八日から七月二日まで連休に入って一斉にお祭り気分が漂った。
 街中は返還を祝うネオンと人でいっぱい。タクシーまでが特別区旗をアンテナの先に掲げて走っていた。七月一日早朝六時には人民解放軍を歓迎するため、新界上水に雨の中一万人近い人々が集まった。政府機関が掲げる旗もユニオンジャックから五星紅旗に変わったことで、街中赤一色に塗り変わり違和感を感じたことは否定できない。が、香港の人々はいたって冷静に受けとめているとの印象を受けた。中英共同声明から十三年の準備期間の中で、香港人はすでに中国への返還を現実的なものとして受けとめ、すでに対応を済ませているのであろう。
 私も何度かタクシーの運転手や香港人が集まる場所でくつろぐ若者や老人などに、返還後の香港について尋ねてみた。すると決まって答えるのが「別に何も変わらない」。
 六月三十日に実施された香港大学社会科学センターの調査では、中国復帰を「特に何も感じない」と答えたものが四八%で最高だった。そのほか「歓迎、期待、楽観」などプラス評価するものは三五%、「憂慮、恐怖、悲観」などマイナス評価するものが九%、両方混じったものが六%、その他三%であった。
 「何も感じない」は「何も変わらない」に通じると理解してもよい。また、本当に「変わらない」と思っている人もいれば、本音は「変わらないはずがない」と思っても「どうもできない」あきらめの心境から期待を込めて答えたものもいたように思う。


すぐに変わらないが、徐々に変わる香港

 とは言いながら、私の回りには返還を境に香港を後にする人々も後を絶たなかった。六月中旬から下旬にかけて、私が勤務する香港大学亜洲研究中心では送別会が続いた。
 まず、香港人女性研究員が家族とともにカナダへ移住するという。また、男性研究員の奥さんと子供が同様にカナダへ移住し、夫である彼は香港に一人残るという話も聞いた。夫婦で香港の将来について何度も話し合ったが認識ギャップは埋まらず、当面別居する決断をしたという。
 さらに驚いたのが、二十年間も当研究センターの総務部長を担当してきたインド人女性が突然、六月末に退職したことである。彼女の夫は商社を経営しており、仕事の関係でシンガポールに移民するという。返還間際になって香港の富裕インド人の移民あるいは資産移転が急増している。アヘン戦争に荷担したインド人が返還後の中国政府の復讐を恐れて逃げ出した、というのが真相である。
 これまで宗主国であった英国人の動きも慌ただしかった。長年香港に滞在してきた政府、大学関係者の帰国が目立った。私たち家族をボート・ツアーに誘ってくれたり、娘に母校を紹介してくださった香港大学の教員も夫婦で香港を去った。英語教育で知られる香港大学も香港人あるいは米欧で教育を受けた中国人が次第に増える傾向にある。返還によって香港の政治、経済、社会がすぐに変わるわけではないが、ミクロ面で少しずつ変化が見られることも否定できない。


返還の舞台裏

 香港返還は世界各国から政府首脳だけでなく、多くの報道陣や観光客をも香港に迎えた。香港返還の舞台裏がどうだったのかについても紹介してみたい。
 香港では確かに返還に伴う不安は隠しきれないものの、この歴史的イベントを逃がす手はないと返還ビジネスも盛んであったことは確かである。返還グッツの売り出し、返還記念バーゲン・セールは当たり前。
 ホテル業界は一年以上も前から返還宿泊パックを売り出した。これは七月一日の返還日を挟んで最低五日あるいは六日連泊縛りで、しかも通常料金の三倍から四倍の料金で予約を受け付けた。これが初めは好調でどこも一杯と言われてきたが、旅行業者が押さえた大口パック旅行が埋まらず、直前になって空き室が顕在化した。このため、六月に入るとホテル間で連泊条件・価格改訂競争が日に日に激しくなり、六月末には三泊縛り、料金も通常の二倍程度までに落ちついた。
 しかし、これにも懲りず、返還記念花火が実施されたビクトリア港に面したホテル・レストランでは、一人二千五百香港ドル(約四万円)もするディナーを受け付け満員になった。また、ビクトリア港に面するビルの空き地では、一平方メートル数万円で報道陣に貸し付けられた。何でもビジネスに利用する香港商法のたくましさを見せつけられた。
 今回の返還式典では、香港政庁もPRに一役買った。政庁は記念式典が行われる国際会議展覧センター新館を建設するとともに、各国首脳、報道陣を多数招待し、新生香港の演出を図った。
  世界各国から集まった報道陣八千人に対して、式典会場と同じセンターにプレス・センターを設けた。プレス・センターでは返還を挟んで二週間ほど連日、香港の紹介、シンポ・講演、スタディ・ツアー(新空港、工業団地)を企画し、海外からの報道陣へ便宜を図った。また、記者登録の際に総額一万円強の返還グッツ(時計、シャツ、カバンなど)の入ったお土産が配られた。
 返還前後、世界各国の新聞記事・報道は香港を隅々まで取り上げたが、この背景には政庁の過分の気配りがあったことは疑う余地はない。返還式典は当事者抜きの印象を強く持ったが、舞台裏では香港人の強かさを改めて感じさせられた日々であった。


私にとっての香港返還

 ところで、香港返還も過ぎた七月七日、日中戦争の口火を切った廬溝橋事件から六十周年にあたる日に、香港のいくつかの団体が日本総領事館に抗議活動を行った。香港で返還後最初の外国政府機関への抗議行動が日本だったのである。
 廬溝橋事件六十周年に当たったためいたしかたないが、最近香港では尖閣諸島をはじめ日本政府への抗議集会・デモが頻発している。日本の侵略戦争を正当化するつもりは毛頭ないが、アヘン戦争を引き起こし植民地支配を百数十年行ってきた英国が惜しまれて撤退するのと比べてあまりにも対照的である。日本の歴史教育から外交のあり方まで、日本人として何かと考えさせられることの多い香港返還であった。


写真
七月一日早朝、旧タマール英国海軍基地を引き継いだ人民解放軍の兵士。プリンス・オブ・ウェールズと書かれたビルと解放軍兵士の取り合わせがおもしろい。



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