講 演 録
生 き る
文・ 林 昭仁(Hayashi, Akihito)
京都文教大学教授
総合科学部学生相談室では,京都文教大学の林昭仁教授を招いて「学生相談とは何か―私の場合」と題する講演会を開催しました。
常日頃,愛情を持って学生の相談にあたってこられたカウンセラーの立場から,氏の生き様,学生への思いを再掲しました。
一. 生い立ち
滋賀県の山寺に生まれた私は、九人兄弟の末っ子でした。父が天台宗の僧侶で、男の子はよそで飯を食うのが当たり前という家だったため、小学生の高学年から中学校に入る頃、私の家の男の子は、みんな小僧としてよその寺に行かなければなりませんでした。
私はできの悪い末っ子でしたが、父の方針どおり、禅寺に小僧修行に出ました。父は私の将来がどうなるのか分からなかったのかも知れません。私は、天台宗とは違う禅宗の寺に小僧修行に行ったのですが、一年で破門になってしまいました。
小学校時代はわんばく坊主で、四年生ぐらいまでは「ボス」でしたが、喧嘩に負けてがき大将の座を降りました。その時の喧嘩の痛みはずっと残っています。
高校時代は甲子園を目指して野球をやりましたが、素行が悪い三年生がいて甲子園はねらえそうにないので、あきらめて、一年生八人がそろって野球をやめました。そのあとは、バスケット部に入ってがんばりました。そして一浪したのち、私は東京学芸大学に入学しました。
二. 学生時代―山と「安保」と修行
ちょうど「安保」の時代で、毎日国会に通っていました。勉強はしていませんでしたが、山登りに夢中になって、ヒマラヤヘの夢を持ちながら四年間山ばかり登っていました。
山登りの経験のある方なら知っておられるかも知れませんが、結構忙しい生活です。春山夏山秋山と、時々冬山に登れば結構忙しくなります。かなりきちんとトレーニングをしていないとバテてしまいますし、パーティーを組んで山に登るので、誰もがリーダーになれるように育てなくてはいけません。山行を一つ計画するのに相当な時間がかかるし、用意周到に計画を立てなくてはなりません。そしてリーダーとして実際に山に入ったら、何が待っているか分からないので、命を落とすことも考えなくてはなりません。
山岳部にとって事故を起こして遭難することは決定的に大学に迷惑をかけることになるので、絶対に事故は起こせません。特に死亡事故があってはならないというぎりぎりのところでやっていました。
リーダーをやってきついのは、責任がすべてリーダーにかかることです。いちばん大きいのは決断力で、進むべきか退くべきかを、雪の状態などを見て決めなくてはなりません。決断して退却するにしても、山行を無事終えるにしても、帰ってくるまでは全責任をリーダーが持っているわけです。後で反省会をするのは、あのときのリーダーの判断があれで良かったのかどうか、自分たちのパーティーだけでなく、先輩やOBもいる中で話し合うためです。
思えば、危ないこともいっぱいしています。フリー・クライミング。春山の雪崩の名所でのビバーク。気温は氷点下一五度。場所は谷川岳。早めに行動をやめましたが、ドカ雪が降って身動きがとれなくなったのでした。雪崩の名所では、起きていないといけないので、お互いにほっペたを張り合いながら、おしっこは垂れ流しながら、食うものもなくなっていたので、バンドをかじりながら起きていました。そんな紙一重の状況の中で、一晩を長く感じました。皆で歌など歌いながら、バンドや手袋をかじりながら、凍傷を防ぐために足を動かしたりしながら、四人で起きていました。
また、南アルプスの登山の時は、私がリーダーだったのですが、アプローチが一日かかる時代の話ですから、今なら車で入れるところを、歩いて一日、登山開始まで半日と、すごい時間がかかりました。そのような南アルプスの、稜線に出る頃になって、二年生がダウンしてしまい、気がついたら既に元気がなく、悪くなっていました。
山奥で病人が出たら非常事態です。肺炎でも起こされたら終わりですし、病人をかついで山を下りてもまる二日はかかりますから、命が持ちません。五人のパーティーは、体力のある者が荷物を分散して、病んでいる一人のメンバーを守っていかなければなりません。当時のことなので薬もいい加減なものしか持っていませんので、生きた心地もしませんでした。
このようなとき、山は命がけですから、ザイルを結べる仲間かどうか、自然を前にしたとき最後のザイルを結べる友かどうかが、厳しく問われます。無事山を登っているときはいいのですが、アクシデントが起こったときどういう対応ができるか、あるいはピンチの状況の時に、どう支え合えるかということは、相手とザイルが組めるかどうかにかかっています。
リーダーが決断をしなければならないのは当然のことで、最善を尽くして決断するのですが、その結果が良かったか悪かったかは後からついてきます。自分がリーダーでないときはフォロアーなので、リーダーが決断したら、どんなことがあってもそれに従わなくてはいけません。自分が一メンバーとして山行に加わっているときは、リーダーと意見が違っていても、山を下りて反省会の時までは意見をいいません。山仲間は衣食住をすべて自分でしなければなりませんので、お互いのさりげない手助けや人間的な力や体力で登山をしていきます。
このように、山を通してザイルを組める友だちを大切にしながら、自分が一人になったときどれだけ自分自身を守れるか、また自分を守りながら仲間を援助するかということを体験させられました。ピンチは予想できないときに起こるものです。自然は全く予測できないことがあり、慎重に地形を読み、そして自分たちが山行する山の過去の雪崩を調べて用意周到に行っても、落石が起こって死んだり、雪崩が起こったりします。ピンチがいかに人間の予測を超えてやってくるか、それにどこまで耐えられるか。最後は運だと思います。
そのようにして私は山ばかり登っていて、山から下りると国会に安保闘争に行くという毎日でした。私はセクトなどには入りませんでしたが、自分の意志で安保闘争に行き、何度も捕まりそうになりましたが、足が速かったので捕まりませんでした。組織力がないので、ただただぶつかっては逃げ回っていましたが、警察に捕まらないように逃げることにスリルを感じながら、安保闘争に関わっていました。
大学四年になると、天台宗の修行で七十日間比叡山に登らなければなりませんでした。ここで天台宗の僧侶として最低限の修行をしました。朝の二時に起き、一つひとつの儀式をこなし、お経を一人で覚えます。ここでは全く一人でこなしていかなければなりませんでした。
お不動さんで護摩を焚きますが、あの護摩木も、何千本も自分で割って準備をします。水ごりで、ある行に入ると、朝二時頃に水を取りに行って水をかぶり、四時頃から始まるメニューにのらなければなりません。楽をしたら「あなたは付いて行けないので、今は資格が取れません」といわれて山を下りなければなりません。
一人ひとりが自分自身で考えながら、感じながら、そのメニューをこなしていかなければなりません。メニューは全体で進んで行くので、自分ひとりが遅くなると大変です。人間には得手不得手があるので、行にも得意なものと苦手なものがあって、苦手なものはやはり遅れてきますが、誰も待ってはくれず、自分ひとりでやらなければなりません。寮監は黙っていて、助手が怒るぐらいなのですが、それでも何を怒られているのか分からず、後で「そういうことか」と納得するのです。
このような宗教的な儀式の中で、自分ひとりで何とか一つひとつの行をこなすことができて初めて、全体のハーモニーになります。
全体でやるときに、自分がきちんとできていないとだめだということがはっきりしていて、「あのとき何をしたのだろう」「何であそこで少し早く飛び出して発声して、全体のハーモニーを乱したのだろう」などと、自分の負い目となって返ってきます。何もいわれなくても、考えなくてはいけません。
比叡山では、そのような一つひとつの仏教的なものを修得しながら、最後は全体のハーモニーヘと取り入れて行くことを勉強しました。
三. 学生相談のかけだしの頃
滋賀県の公立小学校に勤めた後、東京大学に学士入学し、そこから臨床にはいりました。その後、私は学生相談所に行くことになりました。今でも大切にしているかけ出しの頃の体験があります。
東大病院から学生相談所までは割に近くて、歩いて二、三百メートルのところなのですが、その病院の患者さんが、冬の夕方だったか、私がひとりで分裂病の学生と会っていた時に、ポーンと大きな音を立てて入ってきました。学生相談所は安田講堂にあるのですが、六時過ぎで森閑としていました。面接していた分裂病の学生も、呆気にとられてびっくりしていましたが、その雰囲気でぱっと立ち上がって「この方に私の時間を上げてください。私は学生なのでいつでもいいから、また明日来ます」といってさっと帰ってしまいました。それで目の前に全然知らない人が座っていました。私もそのときお茶を入れたりトイレに行ったりして、ワンクッションおけば良かったのですが、あまりのできごとで何もできませんでした。ほかに誰もいませんし、興奮してストーブを蹴飛ばさんばかりの雰囲気でした。「ストーブを蹴飛ばされて火事になったらどうしようか」などと恐れました。
そうしたら「お前は聞いてるのか!」と腕時計をバンと叩かれて、時計も止まってしまいました。「おまえらが悪い。だいたい俺がこんな病気になって、苦しんで社会のいちばん辛いところにいるのは、お前らのせいだ」などと怒鳴られたのです。初めは何を言っているのか訳が分かりませんでした。
私は、病院での経験はあってある程度は分かっていたのですが、飛び込まれた時の体勢の立て直し方がまったく下手だったためにおたおたして、そのためよけいに彼の憤りや不安を増幅してしまいました。「しょうがない」と思って、何が起こっても良かろうと思って、私が少し落ちついてきましたら、彼の方も少し落ちついてきました。そのとき思ったのは、相談室という所は何が起こるか分からないし、ひとりでいることの心細さでした。自分でも訳の分からない体験をし、その中で「立ち直る」という言葉が適切なのかどうかは分かりませんが、彼の方が混乱して落ちつけなかったのでしょう。
この人は前にも相談所に来たことがあるらしく、このたびが二度目だったらしいのですが、そのとき私は、自分が少し落ちつけなくなることが相手に伝わるすごさを感じました。「人が代わったので、少し待ってくださいね」とかお茶を飲むとかして、ちょっと気持ちを切り替えればなんでもなかったのですが、そのままやったから、かえって大混乱をしてしまいました。
四. 学生への思い
基本的な考え方としては、やはり学生というのは未来の日本を支えてくれる集団というふうに見ていますし、とことん他人のヒストリーは尊重されるべきだと思います。こちらが話を聞きながら何かいいたくなるのは、こちらの余計な勝手だと思います。
実際に、人間は一人ひとり自分で生きていき、自分をひとりで支えて生きています。学生の中で、たまたまわれわれカウンセラーの前にあらわれる人も、みんなヒストリーを持っていて、それをわれわれが聞きながら、どこかでその人が生きていける、いかねばならないことを、共感できたらいいと思います。
やはり、若者は全く失望してないのでいいなと感じますし、未来を背負ってくれると思います。しかしこの頃電車に乗っても、みんな朝から冬山に行くような服装をして、大きなかばんを持って、ウォークマンを聴きながら、大きな顔して座って寝ています。「学割をもらっている以上立ちなさい」といいたくなるのですが、全然通じないようです。それにしてもあの大きな荷物を持っているのは、家出志願者に思えます。あの大きな荷物の中に、CDやガムやカロリーメイトやドライヤーなど、いっぱい入っているのでしょう。勉強の荷物があれだけ入っていたら感心するのですが、違うものが入っているようです。まるで家では落ち着かなくて、学校でも落ち着かなくて、どこかで何かを求めて、いつでも家出ができる「若者家出志願集団」のように思えてきます。
いつか東京の満員電車で、女子学生が大きなバックを置いていて、それにみんながつまずくのですが、それを五十歳ぐらいの女性が「あなたね、自分のバックは、混んでいるときはこういうふうに持つの」と一喝していました。その女子学生はさすがに「すみませんでした」といって持ち直していました。やればできるんだと思いました。
学生は、いろんなことがあったとしても、アパシーの人でも不登校の人でも、学校に行けない状況にあったとしても、やはり以後は自分の力で切り抜けています。それならば、われわれが本当の意味でじっくり見守って待つしかない感じがしますし、やはり大切にしたいと思います。
若者を愛するとともに、人それぞれが大切な存在であるということが、基本的なところではないでしょうか。
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