開かれた学問(64)
広島大学キャンパス内における遺跡の調査

文・写真 藤野 次史     
統合移転地埋蔵文化財調査室



遺跡ってなんだろう?

 皆さんは広島大学の敷地にたくさんの遺跡があるのをご存知でしょうか?遺跡とは過去の人間が何らかの活動を行った場所(集落やお墓など)や日常の生活道具などが使われなくなり、廃棄された状態になっている場所などのことです。これらは、多くの場合、年月の経過とともに土中に埋もれてしまいます。この遺跡を対 象として人間の歴史を明らかにしていく学問が考古学で、理論上は人類出現以降の全ての遺跡が対象となります。
 ところで、最近は連日のように新聞やテレビなどで遺跡や遺物(土器や石器など)の発見が報道されているので、目や耳にされる方も多いでしょう。しかし、多くの方にとって遺跡は日常生活とは別の世界の存在で、遺跡というと大阪や奈良の大古墳やエジプトのピラミッド、ギリシアのパルテノン神殿など壮大な構築物を思い浮かべる方も多いことと思われますが、実際には我々の身の回りにも大小の遺跡が数多く存在しています。

古墳時代の須恵器(陣ヶ平西遺跡1号、3号窯跡)


広島大学の敷地は遺跡の宝庫

 広島大学東広島キャンパスが位置する西条盆地は、広島県最大の前方後円墳であ三ツ城古墳や安芸国分寺跡などが存在する広島県有数の遺跡密集地ですが、広島大学の統合移転が開始される以前の移転予定地内にはわずか二遺跡が知られるのみでした。その後、大学の統合移転に伴って遺跡の分布・試掘調査や発掘調査が行われ、現在では二十八か所という多くの遺跡が存在することがわかってきました。
 ところで、皆さんは、「広島大学統合移転地埋蔵文化財調査委員会」という名前を目にされたことがあるでしょうか。この委員会は東広島キャンパス内に存在する遺跡の調査・研究を行うために作られた全学の組織で、埋蔵文化財調査室が実務にあたっています。この委員会が設けられた理由は、東広島市への統合移転に先立って、文学部考古学研究室および広島県教育委員会による遺跡の分布調査、さらに広島県教育委員会による 予備調査・発掘調査によって豊富な遺跡内容が明らかにされたのに伴い、継続的な調査・研究体制が必要と判断されたことによります。
 この委員会は一九八一年に設置され、具体的な仕事として、東広島キャンパス内の土木工事に先立つ遺跡の分布調査(遺跡の有無確認)ならびに発掘調査、遺跡の取り扱いに関する答申、予備調査・発掘調査遺跡の調査・研究ならびに成果の公開、保存遺跡の整備・管理・活用などを行っています。これまで約十七年間の調査によって、旧石器時代から江戸時代まで各時代の遺跡が発見されています。以下、主な遺跡を紹介してみま しょう。

旧石器時代の住居跡(西ガガラ遺跡第1地点)


特色ある数々の遺跡

 鴻の巣遺跡は教育学部南側の北第二福利会館およびその南側一帯の松林に広がる旧石器時代・縄文時代を中心とする遺跡です。
 旧石器時代では、石器ブロック(石器の製作跡など)八か所、土坑八基などが見つかりました。出土石器から約三万年前頃と推定され、広島県最古の遺跡の一つです。縄文時代では、早期(約八千年前)の集石炉一か所、土坑七基などが見つかっています。また、集石炉は九州北部を中心に分布する遺構で、中国地方では類例が少ないものです。なお、鴻の巣遺跡については発掘調査を行った部分の南側一帯が緑地として保存されています。
 西ガガラ遺跡は国際交流会館周辺に位置します。第一・第二・第三地点の三遺跡からなり、いずれも旧石器時代・縄文時代を中心とする遺跡です。旧石器時代では三時期の石器群が出土していて、第一地点で小型ナイフ形石器(約二万三千〜二万五千年前頃)に伴って住居跡六軒以上、礫群二基などが見つかっています。旧石器時代の住居跡の発見例は全国でも二十例程度で、きわめて貴重な資料となっています。
 縄文時代では早期の住居跡一軒、土坑五十三基などが見つかりました。旧石器時代・縄文時代とも当時の集落を復元する上で重要な遺跡といえます。第一地点の旧石器時代住居跡周辺および第二・第三地点の大半は保存地区として将来は整備される予定です。
 鏡西谷遺跡は農場地区に位置し、弥生時代および中世(鎌倉・室町時代)を中心とする遺跡です。A〜H地区の八地区からなり、A・D・E・G・H地区では弥生時代の遺構(住居跡や貯蔵穴など)・遺物、B・C・F地区では中世の遺構・遺物が主体となっています。
 D地区では、弥生時代中期・後期の竪穴式住居跡三軒などが見つかっています。そのうちの一軒は火事で焼け、住居の入り口付近からお守りの一種と考えられる分銅型土製品が出土しました。G地区では、急斜面を現代の団地のように階段状に造成して竪穴式住居五軒を建てており、近接して墓地も営まれていました。これら弥生時代の遺構・遺物の見つかった地区は、ほぼ同じ時期に一つのムラを形成していたもの思われます。C地 区では、鎌倉時代後期の堀立柱ばしら建物跡から多量の土師質土器(素焼きの土器)とともに中国製青磁碗・皿や瓦器(畿内地方で生産された瓦質の土器)などが出土しました。B・F地区でも室町時代の掘立柱建物跡・溝などが見つかり、B地区では墨書土器(土器に墨で文字が書かれているもの)が出土しています。
 鏡西谷遺跡の北側には、室町時代に周防の大内氏が安芸国支配の拠点とした鏡山城跡(このたび国史跡に指定。NHK大河ドラマ「毛利元就」でもたびたび紹介されています)があります。B・C・F地区はいずれも鏡山城に関連した遺跡と考えられますが、鏡山城が築かれる以前からその麓に在地の有力集団(おそらく武士層)が居住していたことがわかったことは重要です。鏡西谷遺跡のD・E・F・G地区については現地保存とされ、現在は遊歩道や説明板が設置されています。
 このほか、鏡山城跡南麓に位置する農場地区には、室町時代の掘立柱建物群などが発見された鏡東谷遺跡、室町時代の墳墓群(積み石塚など)が発見された遺跡があり、鏡山城の武士団と密接に関連する遺跡と考えら れます。なお、鏡東谷遺跡発見の古墳時代後期の横穴式石室は、鏡西谷遺跡へ移築して公開しています。
 山中池南遺跡は池上学生宿舎近くに位置する山中池の南側一帯に広がっており、第一〜六地点の六遺跡からなっています。第一地点では縄文時代中期(約四〜五千年前)の集落跡や、室町時代の鉄の道具を作る鍛冶工房跡の一部が発見され、第六地点では縄文時代早期の集落遺跡が見つかっています。第二地点は現在発掘調査中で、古墳時代後期の竪穴式住居跡二軒、土坑四基などが見つかっています。住居跡は平面長方形をしていて、火災で焼けているようです。一号住居跡は北側に竈を設ていますが、竈は六枚の板石を用いた珍しい形態です。二号住居跡では鍛冶炉や石組み炉が築かれていて、鉄の道具を作った工房跡と思われます。未調査地区にはさらに何軒かの住居跡が存在すると思われますので、小規模なムラがあったと考えてよいでしょう。

発掘調査風景(鴻の巣南遺跡竪穴式住居跡)


遺跡が語る人々のくらし

 西条盆地は原始・古代以来人々が生活するには最適な場所であったようで、多くの遺跡が存在しています。そうした中でも、東広島キャンパスはもっとも遺跡の様相が判明している地域の一つです。旧石器時代では鴻の巣遺跡や西ガガラ遺跡などの遺跡が谷に面した見通しの良い丘陵縁辺部に点々と営まれています。水の便や狩猟・採集に適した場所を選んでいるようで、西ガガラ遺跡では住居跡をはじめとする多数の遺構が、当時の生活の様子を垣間見させてくれます。
 縄文時代では早期を中心に小規模な遺跡が丘陵の先端や谷頭などで多数見つかっています。出土遺物は狩猟用具の石鏃を中心としていることなどから、この丘陵地帯を中心に狩猟活動を行っていたのかもしれません。  弥生時代では後半期に属する鏡西谷遺跡や鴻の巣南遺跡がありますが、現在の水田地帯からはかなり奥まっていますし、鏡西谷遺跡はかなり高い標高に営まれています。これらの遺跡はかなり短期間のうちに廃絶されています。おそらく、もっと便利な低地に移住したと思われますが、不便な場所に集落を営んだ理由を今後探る必要があります。
 古墳時代後期になると、山中池南遺跡第二地点や陣ヶ平西遺跡などキャンパスの北西部に近接して集落が再び営まれていますが、稲作を専らとする一般集落とは性格が異なり、手工業生産に携わった工人たちのムラのようです。山中池南遺跡では鉄の道具作りの様子が窺えますし、陣ヶ平西遺跡では集落に近接してて須恵器焼成窯が築かれていて具体的な土器作りの様子を知ることができます。また、陣ヶ平西遺跡では土器作りを指揮したと思われるムラ長の墓(古墳)が見つかっています。これらの集落もかなり短期間のうちに廃絶しており、ムラを支配する豪族によって移住させられたのかも知れません。
 奈良・平安時代では陣ヶ平西遺跡や東ガガラ窯跡など須恵器の焼成窯が発見されている程度です。大学周辺の低地などを中心に生活が展開していたようです。
 中世、とくに室町時代には大内氏が安芸国支配の拠点とした鏡山城跡が近接して位置しており、同時期の遺跡がキャンパス内に多数残されています。
 鏡山城跡南麓に位置する鏡西谷遺跡、鏡東谷遺跡、鏡千人塚遺跡では鏡山城の武士団が日常居住した館や砦、墓地などが見つかっています。安芸国支配をめぐっては大内氏と出雲の尼子氏が幾度も争っており、鏡山城でも激しい戦闘が行われています。尼子氏が陣を敷いたとされる陣ヶ平城跡が鏡山城跡北側のキャンパス内に位置しています。
 また、山中池南遺跡第一地点や第二地点などでも同時期の遺構が多数発見されており、第一地点は鍛治工房跡、第二地点は砦跡と考えられます。両遺跡は一体となって機能していた可能性が強く、鏡山城跡の西に近接して位置することから鏡山城の武士団と有機的な関連が想定できます。第二地点の砦跡は火災に遭っており、戦闘に伴うものかもしれません。
 以上のように、東広島キャンパスでは古より人々が連綿と生活してきた足跡を辿ることができ、具体的なイメージを膨らませることも可能です。そして、これらの遺跡はこの地域の歴史を明らかにする上で貴重な歴史的資料となっています。
古墳時代の横穴式石室(鏡東谷古墳)


調査委員会の活動成果と今後の課題

 広島大学は東広島キャンパスへの統合移転を完了しましたが、今後も附属施設建設などが計画されており、調査委員会では発掘調査など、野外の作業がしばらくは続くと思われます。
 これまでの調査研究成果については『広島大学統合移転地埋蔵文化財発掘調査年報』として公開するとともに、調査成果をわかりやすく解説した写真集を刊行して一般へのPRにも努めています。
 また、調査成果などはホームページでも公開しています。

http://www.ipc.hiroshima-u.ac.jp/~maibun/ index.html

 大学のホームページの「広島大学の委員会」から辿ることができますので、ご覧いただければ幸いです。  出土遺物は順次整理作業を行い、調査室の一画に展示しています。調査室は学校教育学部音楽棟西側の特高受変電所一階にあります。平日はいつでも開放していますので、ぜひのぞいてみていただきたいと思います。
 東広島キャンパスは約二五〇ヘクタールという広大な敷地を有し、自然と歴史的環境にも恵まれた全国でも有数の良好な教育・研究環境にあるといえます。しかし、建物などに活用できる面積は決して広くはなく、歴史的環境・自然環境の保全と開発との調整に苦慮する場面も少なくはありません。
 幸い、これまで、農場地区の鏡西谷遺跡、国際交流会館周辺の西ガガラ遺跡などの一部あるいは大部分については関係者の多大な努力と理解によって現地保存が実現し、その一部は整備・公開されています。今後は施設の充実と歴史的環境の調和が図れるよう十分な協議をしていきたいと考えてます。関係者の皆様の一層のご理解とご協力をお願いいたします。

広島大学東広島キャンパス遺跡分布図
1.鏡西谷遺跡 2.鏡東谷遺跡 3.鏡千人塚遺跡 4.清水奥山遺跡 5.東ガガラ窯跡 6.東ガガラ遺跡 7.西ガガラ遺跡第1地点 8.西ガガラ遺跡第2地点 9.西ガガラ遺跡第3地点 10.新池遺跡 11.ぶどう池南遺跡第1地点 12.ぶどう池南遺跡第2地点 13.鴻の巣南遺跡 14.鴻の巣遺跡 15.鴻の巣北古墳 16.鴻の巣北遺跡 17.平木池遺跡 18.陣ヶ平西遺跡 19.山中遺跡 20.>山中池南遺跡第1地点山中池南遺跡第2地点 22.山中池南遺跡第3地点 23.山中池南遺跡第4地点 24.山中池南遺跡第5地点 25.山中池南遺跡第6地点 26.西ガガラ古墳 27.陣ヶ平城跡 28.陣ヶ平遺跡 29.鏡山城跡
(太字の遺跡は本文中に説明文のあるものである)

プロフィール
(ふじの・つぎふみ)
◇一九五五年 山口県生まれ
◇一九八〇年 広島大学文学研究科博士課程前期修了
◇文学部講師
◇専   門 考古学
◇研究テーマ 東アジアにおける尖頭器文化の研究

   

広大フォーラム29期5号 目次に戻る