自著を語る

『深海生物学への招待』

文・ 長沼 毅(生物生産学部助教授)





深海アナザーワールド

 人類はいまや高度四六〇キロの上空に国際宇宙ステーションをつくろうとしている。国際宇宙ステーションは来世紀初頭には完成し、宇宙空間でさまざまな調査研究が行われることになる。
 一方、私たちの足もとに目を転じると、深海底は宇宙よりも遠くに感じられる。深海の最深部でもせいぜい水深十キロ余り。しかし、このわずかな距離にある巨大な水の壁が、人類の挑戦を妨げてきた。世界最深のマリアナ海溝底への冒険が一九六〇年 。以来そこへ行った者はいないことからも、深海への挑戦がいかに困難か想像できるだろう。
 地球表面の約七〇%は海である。そして、海の体積の七五%以上は水深一〇〇〇メートル以深の深海である。よく「地球は海球である」と言われるが、これに習えば「地球とは深海球」ということになる。地球生物圏のほとんどは深海なのだ。  しかし、我々はその深海を知らずに地球を語り、深海を知らずに地球生命を語ってきたのである。潜水船による本格的な深海調査が始まってまだ三十年余り。私たちはようやく深海への扉を開けたところだ。


深海砂漠と深海オアシス

 深海という環境はやはり生物には過酷で、生物量に関する限り砂漠のように荒涼としている。この過酷さは高水圧や低水温のためだと思われがちだが、実際にはむしろ餌不足に由来する。深海では光合成が行われないので、深海生物の食糧源は陸や表層からの沈降有機物ということになる。したがって、深海生物の量は、おおむね陸からの距離と水深とともに減少する傾向がある。
 一方、砂漠にオアシスがあるように、深海底にもバイオマスが異常に大きな「ホットスポット」がある。通常の深海底バイオマスが一平方メートルあたり数〜数十グラムなのに対し、ある深海オアシスでは数十キログラムにも達していた。このオアシスとは熱水噴出孔。文字通りのホットスポットである。
 熱水噴出孔はまた、未知の生物の宝庫でもある。特にチューブワームという動物は奇妙で、これのために新たな動物門が提唱されたほどである。チューブワームは、白く細長い筒殻(キチン質+タンパク質)の中に軟体部がある。チューブは数十センチから二メートルにも達する。筒殻(チューブ)の先端開口部からは赤いエラが見え隠れし、白と赤のコントラストが美しい。これが群生するさまは、海底の赤い花の咲いた白い森林のようである。


太陽に背を向けた生物たち

 チューブワームが奇妙なのはその外観ではなく、その生活戦略である。チューブワームは食べることを放棄した動物で、口も消化管も肛門もない。その代わり体内内に硫黄酸化細菌を共生させ、それがつくりだす有機物を栄養源にしている。ちょうど 植物の生活が葉緑体の光合成に依存するようなもので、チューブワームは葉緑体の代わりに硫黄酸化細菌を共生させた生物ということになる。
 チューブワームに共生する硫黄酸化細菌は、我々には猛毒である硫化水素をエネルギー源にして生活する。猛毒の硫化水素が硫黄酸化細菌には「ごちそう」であり、硫化水素に富む海底温泉などは天国のようだろう。この硫黄酸化細菌と結びつくことにより、チューブワームは暗黒の深海で密やかに生き抜いてきたのである。
 地球のほとんど全ての食物連鎖は、最終的には植物に依存し植物は太陽光に依存して生きている。しかし、チューブワームは地球内部からの恵みを受けてきた。太陽に背を向けて…。


深海生物から宇宙生命へ

 深海生物学が明らかにした生命の多様性と可能性は、宇宙生命の可能性にもつながっている。太陽に背を向けた生きざまが深海に許されたなら、これが他所にも許されないだろうか。メタンや硫化水素があれば、太陽光がなくても生命が存在するのではないだろうか。
 地球の海底で本格的な熱水噴出活動が発見されたとき、木星の衛星「イオ」では火山活動が確認された(一九七九年)。イオの表面は火山噴出物の硫黄で覆われている。イオの隣の衛星「エウロパ」にも同様に活発な火山活動があると予想されている。 この表面は厚い氷に覆われているので火山活動を直接には観察できないが、氷の下には液体の水(海)の存在が示唆されている。おそらく火山活動により氷底が溶けているのだろう。エウロパにあると思われるものは、海、海底熱水活動、硫黄、そして「 太陽に背を向けた」化学合成依存の生態系?。我々は深海という地球生物圏の内部を見ながら、実は宇宙を見ているのかも知れない。

 『深海生物学への招待』には、深海への好奇心と驚きが凝縮されている。そして、海から宇宙への夢が語られている。この感動と夢を、一人でも多くの方と共有したいというのが私の願いである。



(新書判二三六頁) 九〇〇円
一九九六年刊 NHK出版




プロフィール

(ながぬま・たけし)
◇一九六一年 三重県生まれ
◇一九八九年 筑波大学大学院博士課程修了(理学博士)
◇海洋科学技術センター客員研究員



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