広島大学での三十年

 廣安 博之(ひろやす ひろゆき) 工学部

〈部局歴〉
  昭和37・4 (民間)
    43・2 工学部
 


 私が広島大学の教授になろうと志したのは、中学生の頃であった。明治二十年生まれの祖父が広島師範を卒業し、戦前小学校の校長を長くしていた。父は旧制中学の教師で、戦後は高校の教師をしていた。そこで、私はなんとなく大学の先生になるのだと、子供心に決意し、高校生の頃、比治山に登り広大がどこにあるのか探したものだった。
 大学受験になって、広島大学を受験しようとしたら、担任の先生から、「将来、広大の教授になるのなら、広島大学でなく、他の大学へ進学する方が良いのではないか」と言われた。その頃まだ、広大工学部には大学院がなかったからである。
 学部学生、大学院生の頃も、将来の目標があったので、先生たちの教授法、研究のやり方を批判することができた。博士課程を修了し、「いざ、広大」と目指したが、定員の空きがなくだめだという。そこで、アメリカの大学でポスドクを二年、民間の 研究所で四年過ごし、新設の講座に就任したのは、一九六八年二月であった。
 あれから三十年、あっという間に時間が過ぎた。九八年三月には、研究室の三十周年記念会を行う。ゼロからの出発で、就任直後何もない部屋に、机と椅子と塵箱を最初に購入したのが昨日のように思い出される。大学紛争、大学院の新設、新キャンパ スの設計、移転そして研究室の経営、研究設備の充実、教授法などひた走りに走ったという三十年であった。
 研究室の卒業生も各方面で活躍している。論文も書いた。研究の成果もかなり世界的に認められた。いまでは、「大学の教授、世界の先端をになう研究者になるには、広島大学に入学しなさい」と言いたい。本当に、広島大学ありがとう。充実した三十 年であった。


米国機械学会授賞式(1992年)で
(左:米国機械学会長,右:エグゼクティブ・ディレクター)




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