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日本でも もっと映画学の授業を!

文 シャピロ,ジェローム
総合科学部人間文化コース講師



 広島大学に籍を置く映画学者、教育者としての私の目標は、マルチメディアの世界で生き延びていくのに必要なツールを学生に与え、動く映像の芸術をより深く鑑賞する手助けをすることである。
 最近大学ではビデオプロジェクターを購入し、私の教える専門科目でフルに活用させて頂いている。それでも私は一本として映画を授業で見せたことがない。実際のところ、広大には映画学の授業がないし、日本中どこを探しても映画学の授業は存在しないのかもしれないのである。
 一八九五年の誕生以来、重要な芸術家・学者たちは映画に鋭い興味の目を注いできた。今世紀半ばには、映画学は大学での研究科目としての地位を確固として持っていた。
 ほとんどの大学において映画史、映画美学、映画制作の授業が少なくとも二、三あり、全ての大学に三五ミリフィルム上映用の機器が備わっている(七〇ミリを備えている所もある)。そして全ての大学で、一般の人も入場できる映画上映が毎週行われている。これは日本以外の大学での実情である。

 確かに日本でもそして広大でも、多くの教授が「授業で映画を見せています」と言われるが、実際は映画ではなく映画のビデオを見せているのである。この違いは非常に大きな意味を持つ。
 ここで説明することはスペースの都合上できないが、例えば絵画と詩歌の違い、モネの作品のスライドを見るのと本物を見るのとの違いに匹敵し、専門書にも多く説明されている。
 さらに、広大では一貫した映画学のコースがない。例えば私の教えている「現代演劇・映画論」は他国では大学院レベルの授業であり、学生は映画史と美学の授業をすでに取っていることが登録条件になるだろうが、本学にはそのような授業がない。
 過去六年間私は、日本の学生に文化面での嗜好、特に好きな映画をアンケートに書いてもらっている。  好きな映画の中に日本映画を挙げる学生は少数で、事実上黒沢映画を見たことのある学生はゼロである。日本以外の国では、大学は普通地域の中心、芸術・文化の場であり、多くの学生が黒沢映画を見ている。
 しかし日本の学生は、自国の芸術・文化にすら触れる機会が少なく、知識も乏しいようである。これは非常に重要なことである。なぜなら自国及び世界の芸術・文化への一貫した導入がないため、日本の学生はその隙間をテレビ消費者文化で埋めることを余儀なくされるからである(日本でのテレビ視聴時間は他のどの国より も長い)。
 テレビ消費者文化が悪いと言っているのではない。日本の学生の文化的側面への浸透度の深さに驚愕がくしているのである。
 私は九六年度のオリエンテーションキャンプに参加したが、そこでの活動の全てがテレビ番組からのコピーに過ぎないのを見て愕然とした。最も知性を問われるイベントが、どの弁当がどのコンビニから買ってきたものかを当てるゲームだったのである。彼らが日本の将来のリーダーとなるのかと思うと恐ろしかった。

 現在広大では、いわゆるマルチメディア設備に予算を注ぎ込んでいる。コンピューターは便利な機器であり必要投資だと思うが、「マルチメディア」という言葉を誤用している者に騙されてはならない。実際には「モノ(単一)メディア」の場合があるからである。
 ビル・ゲイツ率いるマイクロソフト社は、現在映画、ラジオ、テレビ、芸術作品、写真、文学作品のコレクションを盛んに購入している。それらなしには「マルチメディア」コンピューターは役に立たず、芸術こそ人間社会の礎石であることを彼らは知っているからである。
 私は広大や日本の大学が悪いと言っているのではない。日本の学生は明晰で大きな可能性を持っているのに、他国学生と比べて深刻に不利な状態に置かれていると言いたいのである。


映画「KINGS ROW」のワンシーン。右はレーガン元アメリカ大統領
 

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