去るにあたって

 北川 建次(きたがわ けんじ) 学校教育学部社会科教育講座

〈部局歴〉
  昭和32・4 (公立学校)
    38・4 (私立学校)
    40・4 教育学部東雲分校
    53・6 学校教育学部
 


 広大を去るときが来た。小さい頃から広大の前身である高師、文理大、師範学校の建物や学生さんには馴染みがあった。また姉の家庭教師として文理大の学生さんが見えたとき、私は大学生とはこのような人か、と大きなあこがれを持って兄、姉ともども見つめたものである。
 そのような広島大へ入学させてもらい、教育学部、文学部大学院と劣等生ながら勉学した。在学中はよき師、よき友、よき先輩に恵まれ、安保の闘争やアルバイトに追われる在学の日々であった。ドクター修了後、お定まりの浪人ののち、学校教育学部 (当時教育学部東雲分校)助手として大学へ奉職した。爾来、三十三年の長きにわたって、教育と研究に従事した。その間、よき先輩、同僚、後輩、学生に恵まれ幸せであったと思う。
 在職中に私の専門である人文地理学、とくに都市研究をさせてもらい、インド、東南ア、中国での研究も印象深い。  また勤めが教育系であるため社会科教育や地理教育、更には附属東雲中学校の校長まで仰せつかったので、教育の問題全般にわたる勉強もさせていただいた。
 在職中、とくに印象が深いのが昭和四十二年頃より始まった大学紛争である。当時助手として、学生と教官の板ばさみとなり苦労の連続、大いなる試練であった。その後改革に次ぐ改革、学部創設、大学院創設と懸命に取り組んでいる内に還暦も過ぎる 身となった。校舎も東雲の白亜の殿堂から、古代安芸国の国府、テクノポリスの西条の地に移った。眼上に黄金山を仰ぎ見ていたのが、はるか野呂山を遠望することとなった。
 願わくは広島大学が戦後の焦土の中から新生広島大学として発展したように、これからも、ノーモアヒロシマズの精神にのっとり、世界のヒロシマの一環としてのヒロシマ大学であってほしい。そのために、より一層の研究の発展を望みたい。妄言多謝 。

ゼミの学生たちと共に



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