わが人生に悔いはなし

 小山 清(こやま きよし) 附属高等学校 

〈部局歴〉
  昭和38・4 (公立学校)
    41・4 教育学部附属中学校
    44・4 教育学部附属高等学校
    53・6 附属高等学校
  平成6・4 附属中学校
    8・4 附属高等学校
   
 


 私が広島大学附属高等学校へ赴任してきたのは、昭和四十一年四月でしたから、三十二年の長きにわたって在職したことになります。その間、日本一の国語教師を志して、日々の授業に精魂を傾けたこと、高校三年生を五回も卒業させる機会に恵まれ、担任冥利に尽きることなどが、思い出されます。
 その中で、サッカー部長を十数年続け、全国大会へ二度出場したのは、思い出してもなつかしいことです。昭和五十年の夏、県総体における皆実高との優勝戦は、まさに死闘でした。県営グランドの試合、皆実高グランドの再試合は、ともに延長・再延 長に及び合わせて三時間四十分を戦ったのでした。
 この夏の全国総体は、山梨県でも戦前からサッカーが盛んな甲府盆地北西部の韮崎市で開催されました。一回戦は宮崎実業高、二回戦は宇都宮学園高を撃破しましたが、三回戦で帝京高に敗れたのは残念でした。わが附属が全国大会に駒を進めたのはこ れが最後となり、以後雌伏を余儀なくされています。
 サッカー班を全国大会へ引率した昭和五十年、私は、広島大学教職員組合の執行委員長を努めていました。前年、ローテーションによる副執行委員長であった私に、青天の霹靂でもって、お鉢が回ってきたのです。思想的な裏づけは何もなかったのですが、正義派であったことはまちがいありません。
 すでに広島大学の東広島市への移転が決定し、具体的な論議がしきりになされていた時期でして、飯島学長と何度か組合交渉を持ったことを憶えています。また、医学部構内の保育所設置や附属学校の移転の問題が浮上していた時期でもあり、大いに苦 労したのも、今になってみれば愉快でした。
 それから二十年の星霜が移り、平成八年の秋、再び青天の霹靂でもって、私は「教育者表彰」を受賞することになったのです。一緒に旅行したことのない家内を伴い、国立劇場において、文部大臣から表彰状をもらい、皇居の中での写真撮影を家内が喜 んでくれたのは、ことのほかうれしかったです。
 停年退官まで後一年となったとき、静かに身辺整理にとりかかりたいと思いましたが、近年とみに附属学校のあり方が問い直されることになりました。文部省指定の研究開発も実施に移すことになりましたし、実施に移すことになりましたし、副校長時 代がますます忙しいことになったのは、以って瞑すべしと肝に銘じています。

教育者表彰(筆者中央)



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