トルナヴァの原爆記念日

 小野 光代(おの みちよ) 総合科学部ドイツ語講座 

〈部局歴〉
  昭和36・10 (民間)
    37・4 (東京工業大学)
    42・5 (東京都立大学)
    43・4 (小樽商科大学)
    50・10 総合科学部
   
 


 前任校は北海道でした。広島へ来ることが決まったとき、広島の位置を地図で調べてびっくりしました。これほど本州の西端にあるとは知らなかったからです。「あと二センチで海に落ちてしまう」というのが私の実感でした。北関東生まれの私にとって、関西より西はほとんど未知の世界に等しかったのです。その広島へ来て二十三年。人生で最も長く住んだことになります。
 広島大学に新しいタイプの学部ができたと聞いたとき、自分がそこで働くことになろうとは想像もしませんでした。今振り返ってみると、この総合科学部で働かせていただけたことは、私にとって大変幸せなことだったと思います。
 プラハ留学を認めていただき、これが機縁となって小規模ながら全国の研究者からなる近世ドイツ語研究会を発足させ、定期的なグループ研究活動を行うことができたからです。その成果の一つが、一九八七年のチェコとスロヴァキアにおける海外学術 調査の実施でした。
 この話はこのときのエピソードの一つです。スロヴァキアのトルナヴァの文書館を訪れたとき、館長は我々をお花と日の丸とローソク二本を配置して迎え、まず原爆犠牲者のために祈ってくれました。その日がちょうど八月六日であったことを、ハード な日程で疲れていた我々はすっかり忘れてしまっていました。私が広島からきたことへの館長の心遣いなのでした。二本のローソクは広島と長崎の犠牲者のためのものだったのです。
 この調査旅行中いたる所で、チェコとスロヴァキアの人々の「ヒロシマ」が喚起する平和への熱意にふれることができました。資料収集の成果とともに、私にとって忘れることのできない想い出です。このとき蒐集した資料の整理は退職後も続きそうです。

スカーラ教授と。1997年夏,プラハで



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