わが青春の広島大学
田村 達堂
(たむら たつどう) 生物生産学部畜産科学講座
〈部局歴〉
昭和35・12 水畜産学部
54・4 生物生産学部
学問を求める二十歳前後の初々しい青年たちと向かい合うこと三十有余年、無意識の中にわが青春を送っていたようである。
昭和四十四年の広大紛争を契機に、一般教養を中心とする教育の実施体制に首を突っ込み、それなりの哲学を自分に育てることができた。今もそれにこだわりを持ち続けているのかもしれない。
紛争の試練は、教育研究の改革と統合移転を導いた。それらの基本的構築に終始携わり、十一学部を持つ広島大学の諸相と内容を見つめることもできた。二番目に移転した生物生産学部の建物等には、私の密かな設計への思い入れも刻まれている。
大学の営みは自ら志向し、設計しなければならない。学部教育の入口から出口までの組立に、残されたあと四か月係わるのも、福袋を手にしたような思いである。広島大学は置き換えることのできない青春を与えてくれた。
平成元年3月の卒業旅行(大島上島)で(筆者前列左端)
* * *
二度の学部移転を経験した教官は、田村先生で最後である。講義棟に学生のためのロビーを発案されるなど、先生が中心となられて学部の移転が順調に実施された。
先生は教務関係の委員に長く就任され、そのご経験を特別委員会副委員長として、本学の教養的教育改革推進に生かされている。また、入試関連の委員も長く務められ、評議員、自己点検・評価委員会委員長を歴任され、調査室長もご退官まで続けられている。
先生の本学における足跡に並ぶ方を私は知らない。
(畜産科学講座 岡本敏一)
広大フォーラム29期6号
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