海洋生物の種多様性の教育研究のかなめ―水産実験所  

文・写真 大塚 攻


 生物生産学部附属水産実験所は、かつて福山市にあった箕島、鞆、熊野の三実験所を、平成三年(一九九一年)に現在の竹原市に統合移転した。
 この水産実験所は学生実習、啓蒙活動、研究で重要な役割を担っている。水産実験所は海洋生物に関する教育研究をする上での生命線であるが、今、深刻な問題も抱えている。


学生実習、地域への啓蒙活動

 水産実験所は西条から最も近い竹原市の的場海水浴場に隣接しているため、この存在を知っている方も多いと思う。しかし、どのような教育研究がここ で行われているかは、おそらくご存じないことだろう。
 実習では、生物生産学部三年生を対象にした必修科目「水産学実習氈v、 学校教育学部(理科専攻)の必修科目「生物学実験(臨海実習)」が、夏季集中で一週間ほど行われる。これらは専任教官と各学部の協力教官で実施され、次の共通した内容を持っている。
 無人島に実験所所属船舶(図1)で渡り、今では貴重な存在となったアマモ 場で地曳網を曳き(図2)、メバル、ウマズラハギ、マダイなどを採集したり (図3)、タモ網でタツノオトシゴ、モエビといった藻場生物も採集する。こ れらの食性調査を通して藻場における食物連鎖構造を理解させ、藻場の重要性を説く。学生たちは、同じ藻場に住みながら魚種によって非常に異なる採餌場所、食性を持っていることに驚く。採集物は夜に「つまみ」になってしまうが、教育の一端と思っている。
 昼夜にわたり動物プランクトンを採集し、その組成が日周鉛直移動のために異なることを知り、ウミホタルの幻想的な青白い発光も夜間に観察する。潮間帯の貝類が潮汐に合わせてどのような周期的な行動をするのか、帰巣性があるのかを徹夜で観察をする。海産寄生虫の生態、生活史を知ってもらい、彼らのしたたかな戦略を理解させる。昨年は寄生虫に寄生する寄生虫(二重寄生)を学生が発見して、実習中に話題を呼んだ。
 当学部の実習には協力教官による竹原周辺海域の大腸菌の分布、有用魚類の生理に関する実験などのメニューも加わる。いかにも大変な作業の連続であるかのように聞こえるかもしれないが、学生は難無くこなしてしまう。けっしてメインキャンパスでは真似のできない実習内容であり、これが誇りでもある。海の自然史を理解させると同時に、保全生物学、応用生物学に関する教育も盛り込まれている。
 また、水産実験所は本学の理学部、工学部、教育学部、他大学の方々にもさまざまな形で利用いただいている。さらに、広島県教育センター、東広島市教育委員会からの依頼で、海洋生物に関する研修を小中高の先生方に行ってきた。先生たちは童心に帰って海の生物に親しむ一方で、教材発掘のためのするどい質問を我々に次々と浴びせた。

調査船舶「カラヌス」(2.8トン、定員14名)。実習や研究に大活躍している

図2 小久野島のアマモ場で地曳網を曳く学生たち

図3 地曳網での採集物の一部。カサゴ、クジメ、アジ、マダイ、ウマズラハギなどが捕れた



研究─海洋生物の種多様性を探る

 専任教官である私は海洋無脊椎動物学、特に動物プランクトンの系統分類・生態と水族寄生虫学を専門としており、学部生、博士課程前・後期の大学院 生の指導にもあたっている。
 研究面では、実験所周辺の浅海のみならず、当学部附属練習船豊潮丸、海洋科学技術センター所属「しんかい2000」にも乗船し、深海生物の系統分類、進化、生態に関する研究も精力的に進めている。国内外の研究者と共同研究をすることが多く、五年前には大英自然史博物館に約九か月間滞在して共同研究を行った。
 最近の研究の中で特に脚光を浴びたのは、深海性カイアシ類(俗に言うケンミジン: Copepoda)の摂餌生態、進化を明らかにしたことであった。
 カイアシ類は魚類の重要な餌になっていることから、活発に研究されている微小甲殻類である。深海は栄養がきわめて乏しい環境であり、カイアシ類の摂餌戦略も巧妙である。表層から「雪」のように降ってくるデトリタスを専門に摂食するグループがおり、デトリタスをめざとく検出するための特殊な化学感覚器の微細構造解明、機能推定を東京大学海洋研究所の研究者と共同で行った。
 また、ある深海性の肉食性カイアシ類は驚くべき餌動物捕獲方法を開発した。つまり、ヒトの歯に相当する部分に注射針のような構造を作り出し(図4)、唇の裏側から分泌される毒あるいは麻酔をこの注射針を通して餌動物に打ち込むのである。さらに、注射針の先端は折れないようにオパールで強化されている。これほど精巧な餌捕獲器官は瀬戸内海などに生息する沿岸性肉食者には決して見られないものである。つまり、深海ではそこまで苦労しないと餌の確保が難しいことを物語っている。
 当初、これが神経毒であろうと推定したが、残念ながらネガティブな結果がでたため、物質同定は今後の課題である。しかもこのカイアシ類は、同じ科(family)に属し、粒子食を行うより原始的なグループの口器の「部品」をちょっと転用・改良しただけで、このような精巧な捕獲器官を獲得したのであった。既存の「部品」の転用・改良から、まるで機能の異なるものを作り出す能力を生物は持っていることを実感した。
 さらにすごいことに、この精巧な捕獲器官を持つ肉食者の一部は体を小型化する。つまり目立たなくなることで、り目立たなくなることで、この科の中で唯一、餌動物は豊富なものの、魚類などの視覚的捕食者の捕食圧が高い表層にまで、進出することが可能になったと考えられる。まさにスリリングな進化劇であった。
 水産実験所周辺海域での研究としては、瀬戸内海に生息するカイアシ類と珪藻類の関係を調査している。粒子食性カイアシ類は、餌として珪藻類を摂食するだけの一方的な関係にあるとこれまで考えられてきたが、珪藻類がカイアシ類を自分の生活に利用しているような様相も明らかになってきた。つまり、カイアシ類の体表を付着基盤に利用する珪藻類がいたり(主に肉食者に付着する)、休眠胞子と呼ばれる陸上の種子植物の「種」のようなものを運搬する道具に利用したりしているのである。陸上では昆虫、鳥と種子植物とのすさまじいまでの駆け引きや、みごとな共生がよく研究されているが、海洋では、こうした動植物プランクトンの相互関係の研究は、始まったばかりである。

図4 注射針のような構造を備えた深海性カイアシ類の歯

毒あるいは麻酔を餌に打ち込むための注射針



水産実験所の将来は?

 大学、大学院の教育研究、地域への啓蒙活動にフルに活躍している水産実験所であるが、専属スタッフは専任教官一名、臨時用務員一名だけで技官もい ない構成である。こうした現状を外国の研究者に話したら、「信じられない!」という返事が帰ってきた。
 さらに、今、附属施設が存亡の危機に直面している。各国立大学では附属施設の改組の嵐である。あるものは学内共同利用施設の形で、あるものは全国の共同利用施設の形で改革が進んだ。
 先日、当学部においても附属施設検討委員会が発足し、今後どのようにこれらの附属施設を発展させていくか話し合いの場が設けられた。水産実験所のような現場教育研究の前線基地を万が一でも失おうものなら、取り替えしのつかない代償を払うことになろう。その影響は単に広島大学の教育研究に及ぶばかりでなく、卒業していった学生たちが、勤め先の職場で、あるいは学校で大きなハンディを負うことになろう。水産実験所の発展的改革を心より祈っており、読者の皆様のご理解、ご鞭撻を広大フォーラムの紙面をお借りしてお願いしたい。



プロフィール

(おおつか・すすむ)
☆昭和三十四年 東京に生まれる
☆昭和六十年 京都大学大学院理学研究科博士課程後期中退
☆平成四年 広島大学生物生産学部附属水産実験所助教授
☆専門=海洋無脊椎動物学、特に動物プランクトンの系統分類・生態、水族寄生虫学
☆趣味=バードウォッチング、スキューバダイビング



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