歯学部教授選考をめぐって  
─名誉教授の提言とそれに対する異論─




 一昨年五月に行われた歯学部口腔外科学第一講座の教授人事に関して、今期第三号の本誌に「歯学部教授選考の背景と経過」と題する長坂歯学部長の説明を掲載された。これに対し、昨年十二月に高田名誉教授から意見書掲載の申し出があった。広報委員会では、「編集基本方針」および「投稿規定」に基づき、当該投稿を掲載することの可否等について慎重に議論を重ね、本号に掲載することにした。しかし、当該投稿の内容については異論があるため、ここにその論点のいくつかをあわせて掲載することにした。
 広報委員会としては、本号記事により歯学部教授選考をめぐる主要な論点は明らかにできたと考えており、本誌におけるこの問題についての議論を終わりとしたい。

(広報委員会)


 
 歯学部への提言 
文・高田 和彰 (Takada, Kazuaki)
広島大学名誉教授・
前広島大学歯学部口腔
外科学第一講座教授
【はじめに】
 本来大学とは、各専門性の追求と研究・教育を通して学識・見識を深め、社会の模範たるべき人間性をも形成し、もって、地域社会のみならず国際社会にも貢献していくことを主たる目的としている。医学部または歯学部の臨床系講座はその理想の下に、必要な基礎知識の獲得とその上での的確な医療技術を施す臨床医を教育・養成し、併せて高度な先端医療技術を通して地域医療へ貢献することが課せられている。
 私がかって教授・科長として在籍した歯学部口腔外科学第一講座は口腔領域の癌、外傷をはじめ、発育異常や炎症などの疾患の診療を行い、それら臨床を基盤に口腔外科学の教育・研究を推進している講座である。
 今回この講座の後任教授の選考を巡って教室が二分し、さらには同医局の教育現場、臨床現場にも多大な混乱をきたした状態が二年近くにも及んでいる。この一連の紛争に関して、関係者の一人として教授選考の疑問と誤解について検証し、見解を述べ、歯学部・同附属病院への提言としたい。
 昨年の本誌三号に、長坂歯学部長による『歯学部教授選考の背景と経過』と題しての記事が掲載された。この記事の最大の欠陥は、選考の正当性を訴えるべく、選考された現教授の一方的な業績のみを述べ、それらを凌ぐ他の候補者である現助教授の業績についてはほとんど言及されていないことであり、両者の比較検討がほ とんどなされていない点にある。唯一、比較検討されたと思われるのはインパクトファクターだけである。


【インパクトファクターについて】
 インパクトファクターは、一九七五年に創刊された米国のISI社のJournal Citation Report(JCR)に、九一年から論文評価の尺度の一つとして、印刷体のガイドブックに掲載されるようになった。JCRは現在約四二〇〇誌の引用データをもとに制作されている。
 これは、特定の雑誌が引用された回数(被引用数)をその雑誌の出版論文数で割った値、言い換えれば、“ある雑誌が一論文当たりで何回引用されたか”でその雑誌の評価を定めたものなのである。
 しかしながら、JCRを作成するソースであるISI社で製作されている引用索引は、(1)北米の雑誌を中心に収載しているため、アメリカ誌に有利になる傾向がある、(2)引用数が多いことは流行を反映するが必ずしも重要さを反映するものではない、(3)引用数が少ないからといって科学界におけるこれらの雑誌が重要ではないという意味ではない、(4)方法論に係わる論文は常に引用されやすい、などの多くの問題点が指摘されている。
 長坂学部長は前述の記事で、インパクトファクターを科学論文の質的評価を定める国際的指標と記しているが、このインパクトファクターは、JCRが「雑誌の評価尺度の一方法」として定めたもので、種々の科学論文の質的評価を定めた国際的指標などではないということである。実際いかなる科学論文についても、その質的評価を定めることのできる国際的指標など存在しないのである。
 そして歯学部においては、これまで基礎系の教授選においてさえもインパクトファクターが問題視されたことはほとんどなく、むしろ、そのことに逆行するがごとき選考が行われてきたのが事実である。なぜ今回に限りかくも強調されるのか。
 もちろん、インパクトファクターは一つの判断材料には成り得るかも知れないが、それが、指導的臨床医に必要不可欠とされる認定医・指導医資格を凌駕するとは到底思えない。


【歯学部における口腔外科の臨床的役割】
 口腔外科学講座は人命と直結している重要な臨床講座である。改組・改革がいかなる形態で進んだにせよ、このような外科系の教授・科長はその専門分野に関する卓越した知識並びに技能を有していなければならないことは当然である。
 診断・治療に際してはもちろんのこと、手術に際して教授・科長は全責任をもって監督・指導しなければならない。すべての来院患者もそのことを信じ、最後の砦として藁をも掴む思いで大学病院を受診し教授・科長の治療に命を託している。
 日本口腔外科学会では、口腔外科専門医として認定する認定医資格並びにその認定医を指導する指導医資格制度を昭和四十八年に設定し、現在に到っている。認定医の資格取得のための受験には、百症例以上の執刀医と四十症例以上の入院患者の主治医としての経験が必要である。さらに指導医は認定医を育成する立場にあり 、より高度な知識と技能が必要とされている。
 長坂学部長は選考された教授について、本誌で『手術症例は他の候補者には及ばないものの、日本口腔外科学会が定める認定医の資格に足るものである』と述べているが、新教授は認定医試験の受験資格に達しておらず、認定医資格も指導医資格も有していないのである。もし、現助教授たちが大学を去って行くようなことになれば、口腔外科学第一講座には、認定医・指導医の資格を併せ有する者が全く居なくなり、地域医療に貢献すべく高度な先端医療技術を施す、あるいは将来を担うべき若き臨床医を教育・育成すべき使命が果たせなくなる。
 この事実が今回の教授選考に広大関係者をはじめ、多くの市民、県民が疑問を抱き、かつ憂慮している最大の事柄である。それゆえに、医局員をはじめとする教職員たちの、あるいは患者さんたちの、さらには名誉教授、退官教授・助教授を含むOB有志の教授再選考を求める運動が起こったのである。考を求める運動が起こったのである。従って、今回の紛争は決して個人対個人、またはグループ対グループの権力闘争ではないのである。
 その他、研究論文や教育実績、文部省からの研究補助金等についても読者に誤解を与える記述がみられる。  歯学部教授会は平成九年十月には急遽、広島大学歯学部教員選考基準細則を全部改正し、『臨床系の教授になることが出来る者は、十年以上の臨床歴のあること』と明記した。このことは、今回教授会の行った選考に問題のあることを裏付けるものである。


【むすび】
 教授会の決定を絶対視する考え方こそ民主主義の精神を否定し、大学の自治をも脅かすものである。  教授会に求められていることは、単なる数合わせの民主主義などではなく、その学識の深さゆえの、あるいは確固たる信念・理念に裏付けされた良識・知性である。
 教授選に端を発した混乱は早二年になろうとしている。教授会はいつまでも事実の公開を拒んだり、事後の辻褄合わせに奔走せず、一日も早く歯学部創設時の原点に立ち返って、内外の多くの抗議の声に謙虚に耳を傾けなければならない。
 長坂学部長の一方的な記事を本誌に掲載することにより、これだけ多方面から疑問視されている選考結果を、学部改革の名の下に正当化して混乱の終息を図れるものではない。 ここに私が切望することは、教授会自らが当該教室員を含む全教職員、多くの関係者を対象に公開討論会を開催して、選考に関するすべての情報を公開し、一日も早い実質的問題解決を目指して頂きたいことである。そうすることが、今の歯学部に必要な「真の民主主義」、「大学の自治」につながるものである。





 名誉教授の提言に対して 
文・内田 隆 (Uchida, Takashi)
広報委員会委員
 名誉教授は、教授選考時の研究業績の評価の妥当性と、教授の資格要件について疑問を提示し、歯学部に対して選考に関する全ての情報の公開と、学外の人間をも含む公開討論会の開催を提案している。プライバシーに係わる情報の公開をせまるような提案が、非現実的で無意味なことは当然であるので、他の点につい て委員会での発言をふまえて、提言に対する異論を展開したい。


研究業績の評価について
 研究業績は論文の数と質、論文作成時の寄与度で評価される。論文の質の評価の一方法として、自然科学系の大学・学部では、掲載された雑誌のインパクトファクター(IF)を利用することは一般的である。
 歯学研究科では学位論文(Thesis)の内容を公表する際、一定以上のIFを持つ雑誌に限ることを、高田名誉教授在職中の十二年前より実行している。今までの歯学部教授選考でも、IFを一つの判断要素として選考委員会で討論しており、提言にあるように今回に限ってIFを強調しているわけではない。IFが全てではないことも当然だが、今回のように研究領域が類似している場合は、特に重要な比較指標となる。
 一方、論文作成時の寄与度は、筆頭著者が最も高いことはいうまでもない。従って、総論文数は少なくても、IF、筆頭著者論文数で優っていた現教授に高い評価が与えられたことは自然である。


教授の資格要件について
 認定医・指導医は各学会が定める規則によって、学会員に与えている称号である。学会によって規則はさまざまであるうえ、教授の資格要件とはなり得ず、指導医となっていない教授は他大学にもおられる。
 口腔外科認定医の申請には当該講座の教授の推薦を必要とし、一般的には教授が教室員に認定医取得を指導する。例えば、歯学部口腔外科学第二講座では入局後平均七年半で認定医を取得している。しかし、口腔外科学第一講座の高田教授(当時)は平成五年になって初めて教室員に認定医取得を指示し、当時講師であった現教授は認定医取得に足る手術症例数を有していたが、書類不備、時間切れ等を理由に推薦を拒否された事実がある。高田名誉教授が加筆・訂正した申請書類は現在も残っている。
 認定医・指導医であることはそれなりに意義があるが、そうではないから高度先端医療技術や後進の育成能力を欠くとはいえない。
 教員選考基準細則は三十年前に施行されており、細部で世の中の状況に合わなくなったため、関連する申し合せ等と共に改正された。主な改正点は、教員資格をより明確にしたこと、選考委員会に助教授・講師を入れて学部運営の民主化を図ったこと、構成員に対する選考の情報公開を盛り込んだことである。る選考の情報公開を盛り込んだことである。
 臨床系教員の臨床歴を明記したのは、人事の活性化に伴って基礎系と臨床系の両方の講座に在籍経験を持つ教官が増加し、大学卒後の年数だけでは判断不可能になったためであり、選考された現教授は当然この資格を満たしている。


名誉教授の提言はどうあるべきか
 教授選考より一年半以上経過し、多少混乱はあったものの、口腔外科学第一講座における教育・研究・診療は現在着実に行われている。来年度の歯学研究科には、現教授の指導を受ける入学予定者が八名おり、これは研究科内で最も多い。このような現状を無視して不毛の議論を繰り返し、混乱の再燃を図る提言を行う ことは、名誉教授としてすべきではないと考えられる。
 教授選考では、学部に対し責任をとれる教官、すなわち教授が、学部の現状と将来を考えた上で応募者の経歴、業績、人物等を総合的に判断し、その集大成が投票結果となる。従って、正規の手続きを踏んで行われた選考の結果を覆そうと、何ら責任をとれない名誉教授や学外者が介入することは、それこそ民主主義の冒涜で ある。
 自分の推薦した人物が教授に選考されなかったことは残念であろうが、投票で決着がついた後は、歯学部を含めた広島大学の将来を考慮した前向きの提言をすることが、名誉教授としての姿ではないだろうか。


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