2000字の世界

もう、止めたら?

文・ 野村 正人(Nomura, Masato)
附属図書館情報サービス課
絵・ 尾崎 文代(Ozaki, Fumiyo)
附属図書館情報サービス課





 最近はあまりに分が悪い。そう、タバコのことです。総合科学部の事務室が禁煙になったという報告が係長会議であったのはついこの間のこと。ああ、おまえもかとつぶやいたが、今は多勢に無勢。喫煙者に味方するものはまずいない。
 職場はもちろんのこと、駅のホームも禁煙、紙屋町は歩行禁煙。どこにいっても「禁煙」の文字があるような気がする。そんな悪いことはしていないと思う。一晩吸い込んだら死にいたるような排気ガスを出す自動車ですら、町中といわず日本中を走りまわっているじゃあないか。ドライバーは自分の排気ガスをいきなり自分の呼吸しないところに出すが、タバコはいったん体の中にいれているじゃあないか。的外れの八つ当たりをしても誰からも同情を買わない。


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 一日に二十本吸う私ですら、となりでタバコを吸われるとイヤだなあと思う。タバコを味わっているのならともかく、何かしながら、くわえタバコでもされると「どっちかにしんさい」と言いたくなる。
 しかし、止められない。体に悪いということは十分わかっていても止められない。止められない理由をいつの間にか探している。
 タバコひとつで知らない人と気軽に話せる雰囲気はとても好きである。数少ない喫煙可能場所で、「最近は肩身が狭いですねえ」などという会話は簡単にでてくるし、たいてい共感を呼ぶので次の話題も出やすくなる。
 飯場のような体臭ムンムンの作業場で、筋骨隆隆の男たちが休息時にタバコしている姿にはなぜかあこがれすら感じる。男の労働にはタバコが似合うのだ。
 タバコは、酔っぱらいと一緒で、一種「悪の共有」のような快感を感じる。非喫煙者たちよ、どんどんいじめて下さい。江戸時代のキリスト教迫害と一緒で、責められるほどタバコはおいしくなってゆきます。一本が数百円にでもなったら、こんなにおいしい物はないと思うようになるのではなかろうか。(大蔵省様、冗談ですから)


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 私の父も喫煙者だった。子供のころ、父親がタバコを吸っている姿というのはかっこよく思えた。妹たちですら、最近のガキのように手のひらをヒラヒラさせたりはしなかった。もっとも昔の家屋だったので換気が十分だったせいもあるだろう。
 当時タバコ屋は、家からすこし離れたところにあった。日曜日などに父親に言われて往復二十分くらいかけて買いに行かされた。自転車で国道にでるのは許されていなかったから、歩いて行った。銘柄はいつも「しんせい」だった。今でもその絵柄をなつかしく思い出す。
 台所の水屋の隅にあった「トリス」とともに父親のにおいであり、「おとな」のにおいであった。自分が大人になったら、タバコも吸うだろうし、トリスも飲むようになるのだろう、ろう、となんの疑問もなく思っていた。

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 「父も喫煙者だった」と書いたが、彼はあるときタバコをぷっつりやめた。きっかけは医者に言われたからだった。苦しんで禁煙したという記憶はない。ほんとにすんなりやめてしまった。それを境に父親の厳しさがすこし減ったように思う。子供たちの年齢のせいもあるだろうが、なにか物足りなさを感じたのも事実である。
 しかし、若いうちにタバコをやめたおかげなのか、大正生まれの父は元気である。ありがたい。

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 ふと気がついたら、私が「父親のタバコをやめた年齢」になっていた。どうするの。

 

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