開かれた学問(65)
人,動物そして科学

文・写真 谷田 創(Fukiharu, Toshitaka)


 野生動物の絶滅を危惧する声が挙がりはじめて久しいが,この人間社会の中でも同じことが起きているのではないだろうか。すでに絶滅してしまった日本オオカミやトキのような人。今まで普通にどこにでも見られていたのに,気が付いたら身近にはいなくなっていたメダカやドジョウのような人。そして,イリオモテヤマネコのように絶滅が間近な人。
 仕事を効率的にこなし,時間に追われた忙しい毎日をおくっている人たちには,絶滅危惧種の存在が見えていないのかもしれないし,もしかすると意識的に無視しているのかもしれない。しかし,歩調を緩めて立ち止まれば,彼等の姿が見えてくるはずである。


「科学」的思考と主体としての私

 「ご専門の分野は」と人に聞かれれば、とりあえず「家畜行動学です」と答える。家畜行動学とは、動物行動学の一分野で、牛、豚、羊、鶏といった、人の生活に密接に関わっている動物の行動を研究する学問である。
 科学的研究は、因果関係を論理的に説明することが必要であるから、研究者は、研究対象について計測および計量可能なあらゆるデータを収集し、それらを基に客観的に思考し、結論を導きだすことを求められる。その過程で主観的解釈は、分析結果を偏った方向に導く阻害因子として排除される傾向にある。科学を志す者にとって、対象を客観的に捉えることは基本であり、その行為に誤りはない。
 ただ、私はある怯えに支配されている。夜も眠れないほどの怯えである。それは、長期にわたる科学的訓練のおかげで、自身を取り巻くすべてのことに対して私が客観的にしか対処できなくなり、「自分をなくした自分」になってしまうことへの恐怖なのである。


「科学」の目指すもの

 紀元前四世紀の哲学者アリストテレスは、「自然はすべての動物を人間のために造った」と述べており、人間と動物との線引きを行っている。また、アリストテレスの合理主義思想を取り入れてキリスト教神学を体系づけた、トマス=アクィナスも「神学大全」の中で、「不完全なものは完全なもののために存在するのが自然の秩序である。神の意志により、自然の秩序の中で、動物は人間が食べるために殺しても、またどのように利用しても神の法に反しない」と述べており、動物が人間と比べて不完全なものであることを肯定している。
 旧約聖書の創世紀第九章の一〜三節にも、大洪水の難を逃れたノアに対して、神が「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべての生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える」と述べたと記されている。
 さらに、十七世紀のフランスの哲学者デカルトは、動物を心のない自動機械に過ぎず感覚のない生き物であり、よって痛みも感じないとし、自ら麻酔薬なしで犬を解剖した。十八世紀のドイツの哲学者カントも、動物には自意識がないとし、自意識のないものは人間のために存在することを肯定している。
 つまり、ヨーロッパ文化では、哲学的にまた宗教的に、人間とそれ以外の自然の中の生き物との間に一線を画すことで、罪の意識を持たずに自然や生き物を利用することを可能にしようとしていたとも言える。
 このような背景から、科学あるいは科学技術というものを見ると、今はやりの人間と自然環境との共存を科学に求めることは、どだい、おかどちがいであるのかもしれない。なぜなら、科学的な立場から発せられる自然との共存とは、単に自然資源を人間が効率良く利用するということにすぎないからである。


「科学」にないもの

 私は、路上生物観察学会(私が会長で、学生会員が二名)を設立し、休日には路上に戯れる生き物(犬・猫・虫など、生き物であればなんでも)の観察にいそしんでいるのであるが、その最中に人に出会うと、大抵はうさん臭い目で見られる。教養ゼミにおいても「尾道市内における猫の観察」を行ったが、そこでもやはり好奇の眼差しを浴びたように感じる。
 そのような時私は、現代社会において「特別」と「普通」の意味が、逆転してしまったことを実感する。私にとって、歩きながら路上の生き物を観るということは、ごくごく「普通」の行いなのであるが、一般常識では「特別」に属するようである。一般常識で「普通」と言われる行動はおそらく、観光バスに乗って団体で千光寺公園を足早に通りすぎることなのだろう。
 しかし私は、名所旧跡よりも何の変哲もない身の回りの風景の中にこそ、新しい出会いや発見があるように思う。や発見があるように思う。私にとって「特別」なこととは、例えばあの「新幹線」の速さである。寄り道もせず、軌道を外れることもなく、高速で直進することしかプログラムされていない「新幹線」の特殊性を私は恐れる。そしてその次には、リニアモーターカーや異次元移動装置が控えている。科学には、猫に目を向けている暇など全くないようである。


動物行動学という「科学」における動物の心と意識

 動物行動学にはさまざまな分野がある。しかし、どの分野にも共通していることは、「動物に心があるのか」という問題について、研究の対象としては、全く無視するかあるいは一笑に付してきたという点である。
 これは、動物行動学が科学の一分野に組み込まれており、心や意識といった主観的要素を含む研究課題は科学的でない、という姿勢をとってきたことに原因がある。つまり、西欧的思考の象徴である科学の中では、人間と動物とが分断されており、意識を持つのは人間だけであった。また、動物に心や意識があると認めることは、人間の優位性を失わせるとともに、動物の利用を難しくすることでもある。
 ところがこのような状況の中で、ドナルド・グリフインやマリアン・ドーキンスといった動物行動学者が、タブー視されていた「動物における心と意識の存在」という課題を、科学の舞台に引きずり出した。常識に真っ向から対立しようとしたのである。
 もちろん、一筋縄ではゆかない課題であるし、さまざまな非難を浴びていることも確かである。しかし、彼等は、今までの常識では考えられない観点から動物を視ることで、私たちを新しい世界に導こうとしている。自分たち人間のことを顧みればそのことがよくわかる。
 例えば私自身の悲しみや喜びは、私に心があるからこそ感じることができるのだが、現代の科学では私の心の存在を証明することはできない。しかし、科学的に証明できないからといって、私たちの心の存在を否定して、毎日を生きているわけではない。
 実際、私たちの社会では、お互いに悲しみを慰めあったり、喜びを分かちあったりして生きている。つまり、私たちは他人の心を科学的に分析しているのではなく、例えば他人が涙を拭っているのを見ると、まずその行動や表情から、その人が悲しみに暮れていることを知り、さらに自分の過去の悲しい体験と結び付けて同情するのである。
 「他人の痛みがわかる人間になれ」とはよく言われることであるが、これも他人の痛みを科学的に分析して客観的に判断する、ということを言っているのではなく、自分が過去に受けた痛みを思いだし、他人の痛みに対して同情するということなのである。
 人と動物との関係についても、同じことが言えるのではないだろうか。「動物は心を持っている」という命題は、「人間は心を持っている」という命題と同様に、科学的に証明することは難しい。しかし、その手掛かりを探るぐらいならできるかもしれない。そしてその手掛かりを見つけることができれば、動物も痛みや苦しみを感じる心を持っている、と認識するきっかけとなり、私たちの動物に対する態度も変化するのではないだろうか。
 科学を進歩の道具だけに利用するのではなく、道草をするような別の使い方をしてみても良いのではないかと思う。


「科学」と「動物の権利」「家畜の福祉」の概念

 皆さんは、「動物の権利」「家畜の福祉」という言葉をご存じだろうか。「動物の権利」の定義を要約すると、「人間にも生きる権利が保証されているのであれば、動物にもその権利を与える必要がある」となる。
 一方、「家畜の福祉」は、「家畜と言えども生きている間は、命ある生き物として、良好な環境と適切な管理のもとで飼育しなければならない」と定義できる。どちらの概念も、ヨーロッパで形成されたもので、日本ではほとんど浸透していない。
 これらの概念がヨーロッパで生まれた原因はいくつかあるが、その一つは科学技術の発達とともに、動物の飼育形態および利用状況の変化したことが挙げられる。科学技術の発達の結果、従来の自然に根差した家畜生産から工業的畜産による大量供給と大量消費への脱皮が可能になった。
 そして、豚や鶏などの中小家畜は人間の目から隔離され、狭く暗い生物生産工場のような畜舎に押し込まれてしまったのである。その現状に気付いたのはイギリスの一主婦である。そして彼女はそれを「アニマル・マシーン」という本にまとめた。今から三十年前のことである。
 もう一つの原因は、科学研究における実験動物の利用である。ヨーロッパで、実験動物に対する残酷な取り扱いが、マスコミなどを通して公表されると、にわかに社会的注目を浴びるようになった。科学における実験動物利用の是非は今だに論争の的であり、それについてここで論議するつもりはないが、以上二つの出来事が、「動物の権利」「家畜の福祉」といった考え方をヨーロッパ市民に紹介したことは確かである。
 その後、この思想に関連したさまざまな本が出版された。欧米諸国では、教育機関においても動物実験を減らす方向に進んでおり、医科大学などでも動物を使わない解剖の授業を提供するところもある。また、幼稚園や高校などでも、授業において動物の解剖をしないところが増えているようである。さらに、ヨーロッパの農業大学や獣医大学では、「家畜の福祉」「動物の権利」についての講義が開講されているところも多いと聞く。しかし、日本の大学では、動物を扱うさまざまな分野の学生に対して、このような講義はほとんど行われていない。


「科学」における「ため」と「べき」

 「より良い生活のために、さらに科学技術を高めるべきだ」と言われている。だが実際の生活は「世界がこんなふうになったらいいな」という、一人ひとりの夢や希望とは反対の方向に向かって進んでいるように感じられる。
 本当のところ、人々の心のうちには、この「ため」と「べき」に対する嫌悪感と猜疑心が溢れているのではないだろうか。それをわかっていながら、漠然と沸き起こる脱力感を必死で否定して生きているのかもしれない。
 ところで、その不安感や脱力感からか、最近、攻撃的な人間が増えているように感じる。人を面前で罵ば倒したり、責任を追及したり、いじめたり。そして多くの人は、人生を急いでいるせいか、非常に短気である。  その怒りは、社会に対する怒りといったものではなく、日常の些細な事柄に固執することから起る悪意であるように見受けられる。
 なぜそんなに私たちは急ぐのか。今日が駄目でも明日があるではないか。地球の歴史から考えれば、人類が地上に存在する時間は一瞬である。そう考えれば、もう少しゆっくりとお互いのことを考えながら生きてもよいのではないだろうか。


おわりに

 ここまで読んでいただいて、私のことを科学反対主義者だと疑われるかもしれない。しかし、矛盾したようなことを言うかもしれないが、私は決して反科学を提唱しているわけではない。むしろ、科学の恩恵を受けている一人である。ただ・・・。
 現在、私は人と動物とのさまざまな関係について研究を行っている。毎年多くの幼稚園児が生物生産学部の附属農場を訪れるが、彼等が家畜を見て何を感じているのかに非常に興味を持つ。
 農業の衰退や若者離れ、農学部系の不人気(そして学科名やコース名の変更)が問題にされて久しいが、その理由は簡単である。子供たちは土や植物、そして生き物に関心を持つことよりも、競争と合理主義の中で勝者となることを良しとして育てられているからである。
 自分と異なる人を排除するのでもなく、自分と異なる人に迎合するのでもなく、さまざまな種類の人とさまざまな種類の動物が、それぞれ主体的に生きてゆける環境が、私たちにとって必要なのではないだろうか。その環境における個体同士の関係は、単に「共存」といった言葉で表現されうるものではない、と私は考える。


プロフィール
(たにだ・はじめ)
◆一九五七年七月 京都生まれ
◆一九八三年八月 米国オレゴン州立大学大学院修士課程修了(M.S.)専攻:家畜行動学
◆一九八七年五月 米国オレゴン州立大学大学院博士課程修了(Ph.D.)専攻:家畜遺伝学
◆一九九五年四月より広島大学生物生産学部助教授(附属農場)

   

広大フォーラム29期8号 目次に戻る