総合科学部



学ぶことの意味

総合科学部長 生和 秀敏
 「現実の世界にくらべれば、科学などはごく素朴で他愛のないものでしかない。それでもやはり、われわれが持てるものの中で一番貴重なものなのだ」。このアルバート・アインシュタインの言葉には、科学を学んだ者の謙虚さとひそかな誇りが感じられる。
 科学に限らず学問は、その成果もさることながら、苦労を厭わず学ぼうとする者には、わけへだてなくその力を与え、自由な発想と意見交換を勇気づけ、論証の大切さと事実に対する謙虚さを教えてくれる。
 『科学と悪霊を語る』(青木薫訳・新潮社)の中でカール・セーガンは、「科学の価値は、民主主義の価値と相性がよく、この二つは区別できないことも多い」と述べている。独善と偏見が、いとも簡単に、確信や信念にすり替えられることの多い社会において、懐疑する精神、より確かなものを求めようとする揺るぎない心をもち続けることが、未来を切り拓くための必須要件である。
 学問を志すということの意味は、専門的な知識・技術の習得以上に、自由な精神のもつ素晴らしさの自覚、努力への敬意などといった、人間的な価値を身を持って学ぶ機会を得ることでもある。
 高い山はおのずと広いすそ野をもっている。セーガンは、自分が宇宙の研究者として成長できた大きな要因として、シカゴ大学の一般教育プログラムを学んだことをあげ、人間がこれまで営々として創り上げてきたさまざまな知識と知的活動を知らずして、真の科学者たり得るはずはないと述べている。
 大学生になったことの「ひそかな誇り」は、科学的な思考方法の訓練によってのみ獲得できる自己の有能感と、幅広い知識を生み出してきた偉大なる人類の英知への共感とによって支えられるものである。
 物理現象に興味をもつことはきわめて大切なことではあるが、あえて自らを物理学専攻と名乗ることは不要である。文学への深い関心は文学専攻と同義ではない。既存の学問の冠をかぶったからといって、学問への扉が飛躍的に開かれるものではない。
 特定の現象を理解するための思考方法を、集中的に学ぶことは重要であるが、そのことによって知的呪縛を自らに課し、同質集団への回帰を促し、他の学問分野への関心を合理的に遮断するための方便にされるようなことがあってはならない。人間の知的活動は、本質的にボーダーレスであり、自由であり、時には、文系・理系の区別さえ無意味である場合が多い。
 国連は二十一世紀の課題として、グローバリズム(世界との共存)、ナチュラリズム(自然との共生)、ヒューマニズム(人間性の回復)を謳っている。いずれの課題も、分化した学問のモザイク的な組み合わせで、解決可能とは到底思えない。学問の総合化・学際化は、学問的発展の必然であると同時に、社会と時代の要請でもある。
 総合科学部は、事象の持つ複雑さの理解と、それを統合する知的戦略を構築し、人間としての誠実さを失わないで、新しい時代の先陣を切る役割を担っている。諸君の参加を期待している。待している。
 
総科へようこそ!

石橋 淳也 総合科学部学生
 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。在校生の一人として、皆さんと生活の場(東広島は狭い)を共にできることを心から歓迎いたします。
 さて、大学入学直後に皆さんはいろいろな方から「君は大学で何をしたい」と聞かれると思います。しかし、そこで返答を強要されることは恐らくないでしょう。また高校時代までのように、質問する人間が後ろ手に「然るべき回答」を用意している事も多分、ないでしょう。望むと望まないとに関わらず、我々の多くは時期が来れば「選択肢の中からチョイスする」という形で自分のやりたいことを指定させられてきた面があったと思います。
 幸か不幸か、大学は「お前は何をやりたいのか」という設問は用意してくれていないようです。その中で、皆さんが何に興味をもたれて何をやっていかれるか、機会があればぜひ聞かせて頂きたいと思っています。勝手な期待を述べた上で、改めて歓迎の意を表させて頂きます。総科へようこそ。
 (追伸)字数が余っているので、高校時代の師が卒業時に贈ってくれた言葉を紹介します。お譲りすることはできません。私自身、まだ二年生ですので。
──寧ろ熱いか冷たいか、どちらかでいて欲しい。(黙示録3:15)
(いしばし・じゅんや)

「飛翔」編集中(筆者左から二人目)





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