2000字の世界(19)

僕の高校時代と大学に入ってから

文・ 堀 芳郎(Hori, Yoshiro)
医学部医学科





 はじめに断っておくけれども、高校の三年間を通じて、大学入試と焦燥感の混沌が僕の頭のなかに居座り、「無駄なく有効に」という言葉が葬式のときのお経みたいに耳元で鳴り続けていたわけだが、無駄だとか有効だとかという感覚は、ある明確な基準点があるときにのみ成立するわけで、僕がその基準点を大学入試ではなく〈僕の人生〉に置く余裕なんて到底なかったし、余裕を生むほど強烈に僕を惹きつけるものなんて、何一つとしてなかったのだ。
 人生についてあれこれ悩むのは大学に入ってからでもいいや、ということで時には受験勉強という作業自体になんらかの意味を見出しつつ、「志が低い」と誰かは笑うかもしれないが、コツコツと僕は勉強したのです。

 大学合格を旗印に「無駄なく有効に」を呪文のように唱えながら生活していると、機能としての人間にしか接触しようとしない、という傾向がいよいよ濃厚になってくる。
 僕がJRキオスクのおばちゃんに「すみません」と声をかけるのは、僕が牛乳を飲みたいからであって、生身の人間としてのおばちゃんと、何かこう深いかかわり合いをもとうとしているわけではないのだ。受験生の僕にとって─今でもまあそうなんだけど─牛乳さえ飲めるのならば、おばちゃんでも自動販売機でもどちらでもかまわなかった。
 しかし、いつのまにか僕の周囲には、キオスクのおばちゃんみたいな人しかいなくなってしまった。高校三年の冬には、友だちの大半はキオスクのおばちゃんになってしまっていたし、父親にしても母親にしても時として─僕が気がつかないうちに─突然、キオスクのおばちゃんになってしまうことさえあったのだ。

 四月から大学に通うことになった。県外の出身だったので初めての一人暮らしだった。大学のクラスにだって、知っている人なんて一人もいなかった。
 世界中のどこを探し回ってもキオスクのおばちゃんしかいない、という状況はどう考えても異様だし、もともとちょっとさみしがり屋の僕としては、やっぱりそういう状況はちょっとさみしいのだ。
 それに「人間は孤独に堪えねばならない」なんていう言葉を、ただの人間関係不適応者が、ときに蒼ざめた顔で、ときに大上段に構えて、つぶやいたり叫んだりするのを見ることほど僕にとって不快なことはないのだ。
 そんなこんなで僕は免疫力のようなものをほとんど持ちあわせることなく、人間関係の泥沼(良いか悪いかの問題ではなしにそれほどに複雑だという意味で)に飛び込むことになったのだ。

 僕を悩ませたいろいろなことをリストアップすると、・長幼の序・礼儀・おせじ・虫のいどころ・言葉遣い・時間を守ること・喧嘩・約束・ユーモア・悪口・他人の秘密・話題・酒の飲み方・つき合い・恋人・性欲・金銭・権力・評判・羨望・嫉妬・優越・未来・結婚・死・エトセトラ、エトセトラと数えあげればきりがない。
 これら数限りない無数のことどもに対し、なんとか自分にとっての答え─それが幻覚なのかリアリズムなのかは、僕にはよくわからないけれども─を見つけだそうとした。あるいは偉大なる逃走をこころみて、朝から晩までマスターベーションをしたりベッドで眠り続けたりして日々をやりすごした。
 そして今も、いろいろな複雑なことどうしがそれ以上に複雑に絡まりあって、浮いては沈み、近づいては遠ざかって、人工衛星のように僕の周囲をグルグルと回り続けているのだ。

 

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