自著を語る
『ジョン・ダン全詩集』
筆者/湯浅信之
(A5判,711ページ)9,785円
1996年/名古屋大学出版会
文・ 湯浅 信之
ダンとの出会
私がジョン・ダンの詩に初めて触れたのは、学生時代であった。今から四十年ほど前のことである。
戦後の解放感と、無力感の双方が入り混じった学生生活の中で、私はT・S・エリオットの『荒地』という作品に興味を覚えて卒業論文を書いていた。ところが、そのエリオットがダンの詩を推奨していたのである。そこでグリアソンの注釈を頼りに読み始めたが、正直なところ歯が立たなかったと言ってよかろう。その後、大学院で学び、留学から帰国してからは、いろいろな注釈本や研究書が出たおかげもあって、楽しみながらダンを読むことができるようになった。
ダンの時代と生涯
ダンという詩人は今日でもあまり知られていないので、彼の時代と生涯について簡単に解説しておきたい。彼が生まれたのは一五七二年である。エリザス女王がスペインの無敵艦隊を破ったのが一五八八年であるから、ダンはイギリスの国威が最も高揚した時代に青春をおくったと言ってよい。
しかし、ダンの両親はカトリック教徒であった。そこで信仰を守るか、出世を取るか、二者択一を迫られたことがダンの一生に暗い陰を投げることになる。
ダンの弟は信仰を選んだが、ダンは逆に出世の道を歩むことにした。まずスペインの遠征に参加し、次いで当時国璽尚書の要職にあったトマス・エジャトン卿の秘書となった。ところが、一六○一年にダンはエジャトン卿の親戚の女性であるアン・モアと密かに結婚して、彼女の父親の逆鱗に触れて失職したのである。
一六○三年にはエリザベス女王が逝去し、ジェイムズ一世の時代となった。彼の治世は宮廷の腐敗と、厳しさを加えていった宗教論争の時代であった。その中にあってダンは根気よく就職運動を重ねたが実を結ばなかった。生活のためにダンは宗教論争に加わり、カトリック批判を展開したが、内面的な葛藤は激しく自殺を考えた、と告白している。
しかし、一六一五年に国王の意を受けてダンは英国国教会の牧師となり、一六二一年にはロンドンのセント・ポールズ大寺院の首席説教者に任命され、死ぬまで十年間にわたって宗教活動に尽力したのである。
英国国教会の中ではダンは保守派に属していたから、もしピューリタン革命の時代まで生きていたら、ウイリアム・ロードなどと共に処刑されたかもしれない。
ダンの詩
ダンの詩は若い頃に書いた恋愛詩や諷刺詩と、失業時代に書いた書簡詩と、僧職に着く前後に書いた宗教詩に三分できるであろう。いずれも詭弁にちかいレトリックと、コンシートと呼ばれる比喩表現を用いて、複雑に屈折した心理を述べているところが魅力である。
恋愛詩では、きわめて肉感的な要素とプラトニックな思想が同居し、諷刺詩では、鋭い社会批判と自己嫌悪が混在している。書簡詩では、慇懃無礼な言葉使いのなかに真心や友情が見え隠れする。宗教詩では、信仰と懐疑が激しい戦いを展開する。
ダンはしばしばパラドックスの詩人と呼ばれるが、むしろ複雑な心の動きに何とか統一を与えようと努力した詩人であると言った方がよい。ダンの詩が現代人に訴える理由もこの点にあると言えよう。
ダンの詩の翻訳
ジョン・ダンの恋愛詩や宗教詩はこれまでにも多くの人の手によって翻訳されてきた。しかし、彼の全詩集の翻訳はなかなか現れなかった。
十年ほど前から自分で訳してみようと思い立って作業を始めた。停年前に岩波文庫で抄訳を出したが、全詩集の翻訳は間に合わなかった。しかし、幸いにも名古屋大学出版会のご理解を得て、一昨年、世に出ることになった。その上、昨年には日本翻訳文化賞を受賞したが、これは望外の喜びであった。
私は芭蕉、一茶、良寛などの英訳も外国で出版したが、これまでは自分が翻訳家だという意識はなかった。しかし、改めて考えてみると、翻訳は解釈以外の何物でもない。自分の解釈の裏付けのない翻訳は、羅針盤のない船のようなものである。しかし、論文と違って翻訳では、自分の解釈を訳文の中に深く沈潜させなくてはならない。ここに翻訳の難しさと面白さがあると言えよう。
プロフィール
(ゆあさ・のぶゆき)
◇広島大学名誉教授
◇専門 十六世紀・十七世紀英詩
◇趣味 渓流釣り
◇現職 梅光女学院大学教授
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