自著を語る

『明治期英語教育研究』
筆者/松村幹男
 (A5判,419ページ)10,000円
 1997年/辞游社

文・ 松村 幹男


英語教育史研究への思い

 井戸の水を飲むとき、その井戸を掘った人の苦労を忘れるなと言われる。苦労は昔だけではないが、最初に井戸を掘る人はゼロ地点からのスタートであるから、苦労は果てしなく大であったであろう。その苦労と苦心は全く想像を絶するものがあったと思われる。私の英語教育史研究への傾注にもそのような思いが連なっていた。


恩師について…

 私は新制大学の第二期生として入学したが、当時、教育学部英語科(現、教科教育学英語教育学専修)には助教授の飯野至誠先生がただお一人であった。その飯野先生から「外国語教育史」のご講義をお聞きした。一字一句をノートするという方法であったから、今でもノートをひろげると先生のお声がよみがえってくる思いがする。飯野先生は教育史を専門とされたわけではなかったが、私はそのとりこ になってしまった。
 後になって調べてみると、広島では飯野先生の前に、戦前、広島高等師範学校英語科には桜井役(マモル)、定宗数松という日本を代表する大先生がおられ、当時すでに英学史・英語教育史のすぐれた研究をしておられたのを知り、この方面への私の熱い思いは高められた。後に教育学部在職中に、桜井役『日本英語教育史稿』(敞文館、昭和十一年)及び定宗数松『日本英学物語』(三省堂、昭和十二年)を広島の文化評論出版から復刻することができたことは忘れられないことであった。
 また、私の研究にとって、教育学部には英語教育学の垣田直巳教授が、そして国語教育学の野地潤家教授がおられ、お二人から大きな学恩とご指導を受けた。ありがたいことであった。本書のことを語るときこれらの先生方のことを抜きにはできない。


要となる明治期英語教育

 本書は第一部を「明治期英語教育の成立と展開」とし、第二部を「明治期英語教育の課題と整備」とした。
 公教育としての中等学校における日本の英語教育史は、明治五年の「学制」頒布に始まる。それから一三〇年近くが経過した。その三分の一を占める明治期とは、一体何であったのか。次の三分の一となる大正・昭和戦前の時期は、英語教育史の場合、質的には明治期の延長線上にあったことを思うとき、明治期の実態の解明はきわめて大事なことになってくる。
 従来の英学史、英語教育史研究がどちらかと言えば、文献と人物研究を中心とし、英語教育の各分野領域については十分なことがわかっていなかった。これは教科教育としての英語教育学のひ弱なところであった。


足元から始めた実態究明

 私は身近な母校とか勤務校の教育史から始めた。それを広島市、広島県の学校英語教育史に広げていった。足元から守備範囲を拡大していったのである。
 本書で取りあげたのは、各県各校の英語科カリキュラム、英語教授・学習の実態事例、制度的整備の進展状況、英語教授理論の展開、学力観、テスト・評価の変遷、英文理解の方法、英会話指導、外国人教師に関する調査、小学校英語教授の内容・方法とその存廃論などといった諸問題である。これらを通して、これまで部分的にしかわかっていなかった明治期英語教育史を、全体的な視点からその実態究明に努めた。


歴史をたぐり寄せて

 道府県や市町村史料・学校沿革史料・旧制中学校校友会誌などにアプローチした。古い学校(旧制中学校・高等女学校など)を訪問し、また古老を探訪するなどして、書物に書かれなかった事実を確かめようとした。
 個人の自伝・学習回顧録などにも精力的に取り組んだ。教科書、辞書、参考書、ノートなども大切な資料となった。国内各地で見知らぬ方々からのご厚意にめぐりあうことも少なくなかった。ありがたいことであった。しかし、今なお「日暮れて道遠し」の感が強い。
 教育史研究が単なる回顧談や昔物語で終わるのではなく、学校教育全体のよりよき理解と把握のために、いささかの貢献ができたとしたら、これほどうれしいことはない。
 本書は出版社の都合のため刊行がおくれていたが、このたび出版にこぎつけることができた。そして昨年秋、日本英学史学会から「豊田實賞」を受賞する栄誉を頂いた。これはそのさらに一年前の小篠敏明教授(学校教育学部、英語教育学・英語教育史)の受賞(西日本では二人目であった)に次ぐものであることを付記しておく。



プロフィール

(まつむら・みきお)
◇一九三一年 東京都生まれ
◇一九五四年 広島大学教育学部卒業
◇一九六九年 広島大学大学院教育学研究科博士課程後期中途退学
◇一九八七年 教育学博士(広島大学)(在職中、全国英語教育学会会長、広島大学附属中・高等学校長を歴任)
◇一九九五年 広島大学停年退官、広島大学名誉教授
◇一九九七年 広島市立大学退職



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