五十年史編集室だより(2) 


 『広島大学五十年史』編集開始にあたって 

五十年史編集専門委員長 頼 祺一


 国立新制大学は、一九四九(昭和二十四)年五月三十一日公布された国立学校設置法(法律第一五〇号)にもとづいて開設された。わが広島大学も同日設置されたので、来年で発足五十周年を迎えることになる。
 これを記念する事業に関し必要な事項を審議するため、昨年三月、原田学長を委員長とする「広島大学創立五十周年記念事業委員会」が設けられた。事業計画を策定・立案する「小委員会」において、さまざまな事業が計画され、その円滑な推進のため、本年四月には「推進事務室」が置かれた。
 人生であれば「五十にして天命を知る」というところであるが、組織体としての新制大学が半世紀を経て未曾有の変動期を迎えているとき、大きな節目を記念する行事を行い、新しい世紀への展望を示すことは、意義あることであろう。
 今回、その事業の一つとして記念誌編さんが取り上げられ、「五十年史編集専門委員会」が設けられた。昨年七月、各部局等から専門委員が推薦され、遅ればせではあったが「五十年史」編集作業のスタートを切った今、その経緯を述べて、皆様方のご協力を仰ぎたい。
 私はかって、『広島大学二十五年史』の編集室員であったということで、この分野にお詳しい総合科学部の小池先生、教育学部の大林先生、大学教育研究センターの羽田先生らとともに、「小委員会」委員長である小笠原副学長から年史の編さん方針・体制の大枠について相談を受けた。
 理想と現実の間で紆余曲折はあったが、(1)五十年史は来年十一月の記念式典にあわせて「図説・年表」を、五か年計画で「通史・資料編」を刊行する、(2)中央図書館地下一階に「五十年史編集室」を設ける、(3)編集室のスタッフとして室長(専門委員長)のもとに専任教官(助手)、教務補佐員、事務補佐員各一名を置く、(4)編集室に当面必要と思われる設備備品を置く、などのことが決まった。
 この間、編集室や室員の確保について、厳しい状況の中で、学長・副学長はじめ附属図書館、事務担当の久保総務課長・和田同補佐(いずれも当時)には多大のご配慮をいただいたことを特に記しておきたい。
 本年一月、学長から専門委員会委員および専門委員長(文学部・頼)が指名され、二月一日、事務補佐員の採用とともに編集室が開設された。二月四日、「五十年史」の編集に関する基本的計画を立案し、その実施に当たる編集専門委員会が開催され、編集活動方針等が審議・承認された。緊急の課題は専任スタッフの確保であったが、幸い日本近代史を専攻する三澤助手、日本教育史を専攻する小宮山教務補佐員という人材を得て、四月から関係史資料の収集など本格的な活動に入っている。
 私自身は、『二十五年史』編集の過程で苦労した思い出しかないので、できれば今回は参加したくなかったが、委員長に指名されたのは、かつての経験を生かしてより良い「五十年史」を作れということだろうと納得している。
 ただ、大学史編さんの意識や環境は、日本の高等教育史や大学史研究の進展の中で大きく変わっている。「全国大学史資料協議会」という情報交換や、史資料の収集・保存・利用に関する研究を行う組織ができていることなど、今回はじめて知ったようなことで恥ずかしい限りである。また、すでに七十五年史を刊行し、その後「大学史料室」を設置している九州大学の実状調査に出かけて、その施設と内容の充実ぶりに感銘を受け、広島大学にも大学史料館がぜひほしいと思った。
 本学の大学史編さんは始まったばかりであり、今後専門委員会で編さんの目的・方針等を確定し、この事業が広島大学の構成員・関係者にとって、古めかしい言葉であるが、「誇りうる愛校心」の形成に役立てれば、そしてそれを伝える何らかの施設ができれば、と思っている。私の役目は、この困難な事業を統括・推進することであるが、委員各位はもとより、多くの皆様の参加・協力なしには遂行することはできない。
 以上が「五十年史」に関する今までのおおよその経過報告である。『二十五年史』編集の反省と課題を思い起こして、まだまだ述べたいことはあるが、別の機会にゆずりたい。ともかくも、この事業の円滑な遂行・達成は、ひとえに史資料の収集にかかっているといっても過言ではない。学内外の皆様方のご協力を切にお願いする次第である。
〔一九九八年六月一日〕



 大学史の散歩道 

廃墟のうたごえ
 広島大学とその前身校の歴史にはたくさんの留学生たちが登場する。その中で最も有名なのは,戦時下アジア各地から広島高等師範学校と広島文理科大学に来ていて,原爆の被害に遭った留学生たちであろう。
 50年史の編集過程でたくさんの文献や資料を集めている中で,彼らにまつわる胸を打たれるシーンに出合った。
 爆心地から900メートル地点にあった興南寮で被爆した留学生と,同じく1,420メートル地点の高師教室で授業中に被爆した留学生たちは,8月7日の夜から文理大の校庭で蚊帳をつって生活し始めることになる。インドネシア,中国からの留学生,寮周辺住民の日本人,合計17人による野宿生活だ。彼らは夜になると丸く輪になって,「ブンガワンソロ」や「ラササヤンゲ」などを歌ったという(詳しくは江上芳郎『南方特別留学生招聘事業の研究』を参照のこと)。
 被爆前にも寮の窓辺に腰掛けて歌い,1944年11月3日には文理大の講堂で音楽会を催すほど音楽好きだった留学生たちは,人類史上最初の原爆の被害を受けて一面の焼け野原になったヒロシマの地で,どんな思いで故郷の歌を歌ったのだろう。
 現在,熱心な保存運動が展開されている旧広島文理科大学本館(旧理学部一号館〔広島市中区東千田町〕)の前に立ち,この廃墟の中のうたごえに心の耳を傾けようとする時,ヒロシマで学ぶ者の使命と責任を感じるのは筆者だけではあるまい。
(三澤 純)


広島市中区大手町にある「興南寮跡」の碑。被爆後帰国し,それぞれ国の要職に就いた元留学生たちによる記念樹が,この碑を見守るように立っている。碑銘は第4代学長飯島宗一氏のもの。
 
業務日誌抄録

平成10年
2・1 五十年史編集室開設。柏村亜紀室員(事務補佐員)着任。
2・4 第一回広島大学五十年史編集専門委員会
2・24 第一回幹事会
3・2 三澤純室員・小宮山道夫室員(ともに教務補佐員)着任。『広島大学二十五年史』編集時に収集した資料を本部事務局から五十年史編集室へ搬入し始める。
3・11 福岡出張(頼祺一委員長・小池聖一幹事・三澤・小宮山)◇九州大学史料室
3・16〜17 京都・愛知出張(羽田貴史幹事・三澤・小宮山)◇京都大学百年史編集資料室◇名古屋大学史資料室
3・24 第二回幹事会
4・1 五十年史編集室正式開設。三澤は文学部助手に、小宮山は教務補佐員にそれぞれ就任。
4・7 文学部事務長・川上紘氏より一九四九年版『広島大学職員録』寄贈。
4・8 入学式を取材し、写真撮影。文学部教授・古浦敏生氏より、広大封鎖解除時の同氏宛電報を一時借用。
4・15 中国新聞社来室。『五十年史』編集事業について取材を受ける。
4・17 『中国新聞』に編集室発足の記事掲載。資料提供の連絡が入り始める。尚志会より『尚志』バックナンバー寄贈。
4・20 文学部教授・古浦敏生氏より戦前の広島の絵はがきを一時借用。
4・24 第三回幹事会
5・8 総務部所蔵資料調査(小池・三澤・小宮山)。
5・12 全国大学史資料協議会西日本部会出張(小宮山)。東広島市役所所蔵資料調査(小池・三澤)。
5・13〜15 東京出張(小池・三澤・小宮山)。◇東京大学史史料室◇中央大学広報部大学史編纂課◇全国大学史資料協議会東日本部会◇国立公文書館
5・18 文理大卒業生・武田章氏旧蔵資料調査(三澤)。
5・19 東広島市役所から市役所所蔵の大学関係写真資料リストが届く。
5・21 文学部事務長・川上紘氏より広島大学絵はがき寄贈。
5・29 第四回幹事会及び第一回研究会◇研究会報告…頼委員長「『広島大学二十五年史』編集活動を振り返って」
5・30 元学長事務取扱・桜井役氏旧蔵資料調査(三澤)。


〈連絡先〉50年史編集室 電話 0824(24)6050 FAX 0824(24)6049
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