昔と今の感傷旅行 

安田女子大学教授 稲賀 敬二

外から見る限界

 広報委員会や基本計画委員会にかかわって統合移転の時代を膚で感じ、渦中にもまれた緊張の日々に比べると、外から眺める広島大学は遠い存在だ。私にできるのは「今の繁栄を前にして、そこへ至るまでの過去との対比を試みる」程度のこと。


外側だけで内側は見えない

 建物や制度の変化は外からも見える。内側の全学の意思や意識、それが「昔も今も変わりない」のか否かは、判断がつかない。外からは見えないのである。移転・改革の委員会のお手伝いをしていた頃も、構成員と意識改革などという議論が繰り返された。
 「教養的教育改革の全学研修会」に教職員一八〇名が参加の記事(「広大フォーラム」三四三号)を見ながら、その盛り上がりの度合いや雰囲気の方に興味を持つ。外から眺める野次馬根性は誰にでもある。
 「教養的教育」の実施は全員賛成で全学一枚岩?それとも無関心派も結構いますよというのか。今の世の中、全員一致などあったら、かえって気味が悪い。昔、統合移転の意思決定でも、大学院五領域構成案だって、図書館の位置ひとつにしても、条件つき賛成を抱き込んで一歩一歩前進させた。大きな仕事ほど、反対、批判、無関心が気になるものだ。でも、初心を貫いた後には、そういう雑音はもう聞こえなくなる。新キャンパスで新しい試みに取り組んでおられる方々は、昔の私たちと同じ思いに耐えながら、高等教育の理想を追い求めておられるのだろう。


今はなくなったもの

 移転完了で、今はなくなったもの。これは、さまざまな分野にわたる。大小おりまぜて少しあげてみよう。
 キャンパス予定地は葡萄畑跡、草木が生い茂っていた。ががら山の山裾の「お立ち台」と称する地点に立つと、眼下に広がる敷地が展望できた。国会議員の視察団などは、ここへ登って見渡してもらう中心地だった。中心は時の流れとともに移動する。今、キャンパスの中心地はどこだろう。
 用地交渉は地権者の家を一軒一軒回る。敷居をまたぐのも許さぬ家の軒先で傘をさしたまま、じっと耐えた経験をお持ちの事務官も今は大方が退官された。過去の日々は、その記憶すら消えつつある。曾ては松茸が取れた。どこか片隅に、ひっそりと松茸は生きているだろうか。そんなシロは知っていても秘して語るまいから、これも幻の存在。
 樹木を残そうという提案があって、造成予定地から掘り集めた樹木を仮植えした。あの中で何本が生き残ったのだろうか。土質が悪いから移植しても枯れる率が大きい。「枯れ保障」という造園業の用語を知ったのもその頃だ。
 周辺への水質変化の影響を危惧する声に応えて、水質検査の機器を設置して定期的に記録したりした。あれはその後も継続されているのだろうか。
 移転第一陣の工学部が移る頃、出没するマムシ対策に「マムシ注意」の立札を作った。立札のマムシの絵は随分かわいい顔だった。あの立札は今も残っているのだろうか。それとも人口急増、マムシ酒にされるのを恐れて逐転してしまったか。マムシ災害よりも、交通事故災害の方が目につく昨今だ。交通事故は駐車場確保と並んで、当初から頭を痛めた課題だったが。


回想と感傷の差

 「忘レテハナラヌ物ガアル。マタ忘レナクテハナラヌ物ガアル」(史記)。学部エゴなどという言葉は、さしあたり後者に属する。
 五十年史では、先に列記した些末な事項は、「不可忘」物に入るかどうか。統合移転・改革の長い過程の中で取り上げられた話題は、一つひとつを眺めると、たわいない、無意味なものに見えながら、全体の流れの中では意外に重い意味を持ち、「初心」を忘れぬ自戒に役立つものも数多く含まれているように思われる。「私の列記したのは、その一部」などと詭弁を弄するつもりは、さらさらないが。


プロフィール        
(いなが・けいじ)
◇一九二八年 鳥取県生まれ
◇一九五四年 東京大学大学院修了
◇一九五六年 広島大学文学部講師
◇一九六一年 同助教授
◇一九七〇年 同教授
◇一九八〇年から八四年まで大学教育研究センター長            
◇一九八八年から九〇まで文学部長
◇一九九〇年 広島大学名誉教授
◇一九九三年 安田女子大学教授

            




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