「拒まれても出て行く」骨太さを 

培材大学校講師 和田 綾子

 広島大学へ提言を、と言われても何かを言えるほど広大の全体像を理解しているわけではなく、また、ここ数年はめまぐるしい変化があったようなので、的外れな提言になってしまうかもしれないが、もし、また自分が広大で学べるとしたら何を望むかということも含め、広大から外に出てみて感じたことを率直に述べてみたいと思う。


来るものは拒まず?

 現在、韓国の大学で専任講師として勤務しているが、韓国で働くことを決めたとき、ある先生から「広大出身者はなかなか外に出たがらないと言われているから頑張ってきなさい」と激励された。しかし、日本語教育学科に所属していた私の周りには、働く場として国外を視野に入れている先輩方も多く、先生方も常に情報を提供してくださったので、国外もごく自然に活動の場として視野に入れていたように思う。
 また、広大は、中国地方の留学生受け入れの拠点として早くから留学生センターを持っており、学部・大学院ともに留学生を多く受け入れていたし、大学院には、国内外で社会経験を積まれて来た方も多く、そんな方々との交流を通じて、さまざまな方面に目を向けることができたように思う。
 さらに、学際性を重視し、例えば日本語教育学科なら教育学の枠に囚われず、あらゆる角度から「日本」にアプローチする視点があることを教え、育ててくれる土壌があったことも、折に触れて「日本」について発言する立場に立たされてしまう国外での生活においては大変役に立っている。
 韓国の大学では、外国語はネイティブ・スピーカーから学ぶべしという志向が強く、私が勤務する大学にも英・中・日・露・独・西・仏語の外国人講師がいるのだが、ソウル以外の地方都市には留学生は少なく、生活面でも外国人を韓国社会に根付かせようというケアがほとんどない。
 在籍中にはことさらに感じなかったことだが、広大では、地域社会の協力を仰ぎながら彼我の境界をなくす努力をし、留学生がいる風景が日常化していたことがつくづく思い返される。しかし、広大には来るものは拒まないが、拒まれても自分から出て行くタフネスや、アクションを起こして台風の目になろうというようなダイナミックさがもう少しあってもいいのではないだろうか。


どんどん外に出て経験を

 韓国の大学には、広大に留学していたという先生も多く、しかも、血縁・地縁についで学縁を重視するため、ネットワークも強い。ところが、韓国各地の大学で活躍されている先生方が、そのネットワークを日本まで伸ばし、学生の交換留学など定期的な交流を望んだとしても、個人的な繋がりをたどっていくだけでは限界もあり、なかなか難しいようである。渉外の窓口が明確化され、外部に向けてさらに積極的に情報提供等をしていただけるようになれば、外にいる者としては大変ありがたい。
 また、広大の学生たちは、日常的に留学生と交流し、国際感覚を身につける機会に恵まれているが、留学生は、多かれ少なかれ日本社会と折り合いをつけながら生活している。そんな彼らと交流をするうちに「世界は一つになれる」と思うかもしれない。しかし、国際化は「世界は一つになれない」もしくは「一つになることは容易ではない」ということを認識するところから始まるのではないだろうか。異文化にぶつかって、拒まれて、それでもひるまずにぶつかっていく、そんな骨太さがもっと必要なのではないだろうか。
 自分自身の学生時代を振り返ってみても、後悔することだが、学生には早いうちから小さくまとまらずに、どんどん外に出て経験を積んで、自分を鍛えて欲しいし、外に出て行かなくても、広大の中で骨太の体験ができるように、国内外を問わず講師を招へいし、刺激的な講義や、講演会を学部生のときからどんどん聞かせて欲しい(欲しかった)。
 以上、外に出た者の気楽さから、勝手なことを言わせていただいたが、今も広大で学んだことに支えられている。最後になってしまったが、この場を借りて感謝の言葉を述べたいと思う。



プロフィール        
(わだ・あやこ)
◇一九六九年 広島県生まれ
◇一九九四年 広島大学大学院博士課程前期修了
◇一九九四年 広島大学教育学部教務員
◇一九九六年 韓国 培材大学校外国学大学日本学科専任講師
              

日本学科の学生たちと(筆者:右から二人目)



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