品格のある個性 品格のある地方 

京都大学教授  丹羽 太貫

 原爆放射能医学研究所に助教授として赴任したのは昭和五十九年、以来平成九年三月まで霞キャンパスで過ごした。その間、自分の研究と広島大学の方向について思いまた悩むことが多かった。また転出の後にも、学長の原田先生にはお話を伺う機会があり、今も広島大学について考えることは多い。
 赴任したころはすでに工学部の移転が始まっており、東千田での狭さをかこつ総合科学部の友人は早期移転を切望していた。私は以前から都市は経済中心のみならず総合的な文化の中心であるべきで、それには大学が必須である、との持論をもち、浅野四十二万石の広島には当然ながら広島大学が、との思いがあった。後に全学の自己点検・評価委員を仰せつかった際に、広大移転の経緯について話も伺い調べもしたが、探し方が足らなかったのか「緑に囲まれた広いキャンパスでの教育と研究」といったお題目以外には必然と言うべきものを見つけ得なかった。
 自己点検・評価委員会では、広島大学の今後の資料として移転の功罪の点検評価を提案したが、採用されるにはいたらなかった。移転は、学園紛争に対する解決としてのみ立案されたものでは、との思いが絶えなかった。功罪はともあれ、移転が完了した東広島の今日は学生の若さがあふれ、移植された木々も落ちつき、春にはヒバリやウグイスも聞こえる美しいキャンパスとなっている。私の昔の思いも、小知間々(荘子斉物篇)と言うべきか。


学外との交流で霞の発展を

 統合移転から残された霞キャンパスは、単科大学化傾向をいかに阻止し、新たな展開をどのように図るかが大きな問題であった。市内の地の利を生かすものとして、被爆者医療から派生する問題は、社会的には言うまでもなく、学問的にも重要である。わが国特有の戸籍制度に裏打ちされ、また米国による調査や原対協などの組織に支えられた膨大な被爆者データーは、人類史上希にみるものである。被爆者では、がんや心疾患などの生活習慣病が促進される。この機序を探ることは、二十一世紀にはますます大きな問題となるこれらの疾病の克服に糸口を与える。
 幸い霞の隣には、世界的に著名な成果を誇る放射線影響研究所がある。客員教授制度などによりこの研究所との交流をもっと盛んにすることは、残された霞キャンパスの今後に重要な意味をもつ。ともすれば米国寄りであるとの非難を受けるきらいがあった放射線影響研究所にとっても、これは新しい展開として望ましい。


自我の涵養を

 広島大学は、いまどのような問題があり、解決があるのであろうか。さらに二十一世紀のわが国の問題は何で、それに大学はどう貢献できるのであろうか。各論はともあれ、昨今の日本のさまざまな面での沈滞は、実に過去百年の社会の流れの必然であるやに思える。
 明治以来西洋に追いつくため、経済面での発展に国を挙げて邁進した。そのなかで自己の確立はないがしろにされ、個人による意思決定と結果に対する責任の基本原理は、社会の上層にいくほど省みられることがなかった。百年の営々たる努力の結果すでに邁進する目標はなく不幸にも自我を涵養することがなかったため、なすところを知らずという状況のように思える。
 数年前に、アウシュビッツで死体の焼却係りをしていた人物がテレビに登場していた。ある地方からのグループがガス室に入れられようとした際に、彼はこれに加わって死ぬことを選ぼうとしたところ、死に赴く人々から無駄死にせずに生き残ってここから出る努力をするように、と諭されたことを涙ながらに語っていた。
 個人の総体から成るわれわれの文化は、果たして同じ説得をする精神面での自由さと強靭さを有しているであろうか。個人の確立は、二十一世紀を目前にしたわれわれに突きつけられた問題であり、それについて大学人がなしうることは多い。
 真に価値のある普遍性は、多くが個を出発点としている。同じ地方にある京都の地に転出した現在、わが国の二十一世紀に必要なものは、品格のある個性であり、品格のある地方であることを信じたい。



プロフィール        
(にわ・おおつら)
◇一九四三年 兵庫県生まれ
◇一九七五年 米国スタンフォード大学大学院修了、Ph.D.スタンフォード大学、京都大学勤務を経て一九八四年より広島大学原爆放射能医学研究所勤務
◇一九九一年 同教授
◇一九九七年 京都大学放射線生物研究センター教授             




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