2000字の世界(21)

国際理解のために
 〜英語以外にもうひとつ〜

文・ 杉山 政則(Sugiyama, Masanori)
医学部総合薬学科教授



 日本学術振興会とフランス国立保健医学研究所(INSERM)との合意に基づいた日仏科学協力事業の交換研究者として、一九八七から八八年にかけてパリに住んだ。それが私にとっての初めての海外生活であった。
 パストゥール研究所バイオテクノロジー部門(Julian Davies教授)で研究するために渡仏した当時、ひとり娘は三歳になったばかり、その子も今や中学二年生となった。時間の経つのは早いものだとつくづく感じる。
 その頃デービス教授は四つのプロジェクトを動かしていた。私の所属した『放線菌の遺伝子工学』のチーフは米国人であり、のちにスイス・バーゼル大学の教授となった。英国人であるデービス教授の研究室にはフランス人以外にもスウェーデン、インド、コロンビアなどいろいろな国の人たちがいた。研究室のセミナーは朝食を食べながら和気あいあいと行われた。だが、私にとってはいつもクロワッサンを味わうどころではなかった。なぜなら、そのセミナーはいつもフランス語で行われていたからである。
 帰国後しばらくして、本学医学部教授(総合薬学科)に就任したのを機に、これまで多くの外国人にお世話になってきた私は、その恩返しの意を込めて外国人留学生を積極的に受け入れてきた。現在、アイルランド、スペイン、韓国、ブラジル、中国そしてスーダン出身の学生がそれぞれ研究に励んでいる。
 今年は夏休みまでに二回ほど外国へ出張した。まず、五月の下旬にはカナダ・バンクーバー市にあるブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)に行った。それはデービス教授の退官記念行事を兼ねた国際シンポジウムで発表するためであった。彼は、私がパリを離れたあとで、なんとUBCの免疫学・微生物学科のヘッドとしてバンクーバーへ招へいされ、そこで定年を迎えたのである。
 そのパーティーには伴侶も出席することが望ましいとのことで妻を同伴した。さらに、成長したわが子もデービス教授に見て欲しかった。そこで、娘の通っている中学校が五月の下旬に中間試験を計画していたにもかかわらず、担任の先生にカナダ旅行の可能性を打診した。その結果、試験よりも大切なことであるからと娘のカナダ行きを快諾して下さった。その返事を頂いた時には、さすが国際化を目指す広島大学の附属学校であると感激してしまった。
 ついでに言えば、最終試験日が出発日と重なったが、関西空港発の便に間に合う時間帯に終了したことから、結局、娘はUBCのキャンパス内を大いばりで散策したのであった。
 わが娘は退官パーティーの席上、当然ながら英語で話し掛けられ、習ったばかりの単語で対応していた。教授の奥様も「AKIKOはパリではこんなに小さかったのに、ずいぶん大きくなったね」と喜んで下さった。帰り際、UBCに留学したいと娘は話し、彼女をカナダへ連れてきたことの幸福をあらためて感じた。帰国後、デービス教授からEメールで「あなたの娘さんがUBCに留学することを楽しみにしている」との言葉が寄せられた。
 八月は、パリ・パストゥール研究所での共同研究の打ち合わせと、リヨンでの講演目的でフランスを訪問した。夏休みということもあって、当然、妻と娘を伴っての旅であった。
 パリおよびリヨンに滞在中、二人の友人がそれぞれ私たち家族を自宅に招いて下さった。パストゥール研究所のかつての同僚で、今は微生物生化学研究室のチーフとなったマゾディエール博士には、二人の息子さんがいる。しかし、残念ながら私たちが彼の自宅に招待された時には二人とも不在であった。その理由を尋ねてみたところ、一人はノルマンディーに、もう一人は語学の勉強を兼ねてドイツにいるとのことであった。
 リヨンで食事に招待して下さったザンデル博士の家庭でも同様であった。リセに通っている息子さんとは夕食を共にしたが、語学研修のため次週からドイツにホームステイすると話してくれた。
 最近、わが国では博士の学位(特に理科系)を取得するにあたって、必ずしも二か国語を要求しない大学が多い。私の研究分野(医薬遺伝子工学)でも、英語で書かれた論文を読みさえすれば事足りる。平成十年度の本学医学系研究科の大学院入試で、ついに語学試験は英語のみで良いことになった。
 ただし、個人的に言えば、英語しか知らない博士ではちょっと寂しい。実際、今回のフランス滞在中、英語で質問してもフランス語でその答えが返ってくることを何回か経験した。さらに、子供たちにできるだけ多くの語学を修得させようとするフランス人が多いことや、フランス人以外の研究者が英語とフランス語で流暢に話す姿が目立った。
 今回のフランス訪問は、「世界共通語である英語さえ知っていればそれで良いのではなく、第二・第三外国語を積極的に学び、その国の言葉で話そうと努力することが真の国際理解のために必要ではないだろうか」と、より強く考えさせられた旅でもあった。

 

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