開かれた学問(68)

   古くて新しい免疫学   

文 ・菅野 雅元

 布団を掛けないで寝ていると、「風邪をひくぞ」といわれます。かぜは布団で遮断できるのか。布団は生体防御機構か。布団は免疫か。一体、「免疫」て何だろう。
 
人類が認識した「免疫」の歴史

 一体、免疫という現象を、いつごろから人間は気がついていたのでしょうか。少なくとも、紀元前五世紀のギリシャ・カルタゴの戦争の記述に、今でいう「免疫」ということが「二度なし」という言葉で書かれています。
 その当時カルタゴ軍がギリシャ植民地を次々と攻略していたが、特にシチリア島のシラクサの攻防戦は二度にわたるものでありました。はじめのカルタゴ軍とシラクサ防衛軍との戦いは熾烈をきわめたが、ペストが発生し、両軍とも大きなダメージを受けて、カルタゴ軍は撤退しました。
 それから八年後、カルタゴは再びシラクサを攻撃してきました。しかし、再び戦線にペストが流行したのです。このとき八年前のペストを経験し、生き残っていたシラクサ防衛軍はペストに対しほとんど無傷であったが、新しく部隊を編成したペストの経験のないカルタゴ軍は、八年前と同様大被害を被り敗退したのでした。
 このペスト流行の時期(紀元前五百年)はトゥキュディデス(ツキジデス)の「戦記」に記載されています。この事実は十九世紀末の微生物学者ルイ・パスツールによって「二度なし(non reidive)現象」として再発見されています。これが、いまのところ人類最初の「二度なし」の記述です。
 さらに時代は進んで、中世(例えば一三四〇年代後半)にもまたペストの大流行がヨーロッパを襲うことになります。その当時のことが描かれている絵画の代表作の一つがピーター・ブリューゲルの「死の勝利」です。
 当時の教会にはヨハネ騎士団のように医療に従事し、慈善活動を行うキリスト教騎士団が病人の介護に活躍していたが、これらの人々の多くもペストの犠牲になったことは言うまでもありません。しかし、その中で奇跡的に助かった僧侶やキリスト教騎士たちは、それ以後いくらペスト患者と接触しても二度とこの病に倒れることがなかったのです。
 これこそ神のご加護であると彼らが信じたのも無理からぬことでした。この「神のご加護」を得た者に対してローマ法王が課役や課税を免除したことから im-munitas・(免除){つまり法王の課税(munitas)を免がれる(im-)という意味}という単語が用いられ、それが今日のImmunity(免疫)という言葉の語源になっています。
 しかし、この奇跡が神の力によるものではなく、生体の持つ免疫反応によるものであることが証明されるまでには、それから四百〜六百年間待たなければなりません。このような歴史的事実を踏まえれば、免疫系が、外敵から個体を守るための生体防御機構である、と一般に理解されていることも無理からぬことです。
 こうした人類の経験をもとに、牛痘に罹った乳搾りの女が天然痘の流行に際 して罹患(りかん)しないことを観察したイギリスの医師ジェンナーが、牛痘の膿を子供に接種することによって、天然痘を予防することができることを発見したのは一七九八年のことです。これがワクチンの始まりです。
 ワクチンというのは、雌牛のことをラテン語でバッカ(Vacca)というので、そこからワクチン(Vaccine)という言葉ができたのです。牛痘の接種(種痘)は当時最も恐れられていた天然痘を予防する方法として瞬く間に世界中に広まり、約二百年後の一九八〇年には地球上から天然痘という病気そのものが撲滅されたのです。

「死の勝利」の一部



免疫と抗体

 十九世紀の終わりごろになって、細菌が次から次へと発見されます。それをさまざまな病気の治療に応用しようとしたのが、ルイ・パスツールです。一八八五年に狂犬病の子供に、毒性を少なくした狂犬病ウイルスを植えることで治療しました。ジェンナーの種痘から九十年後です。
 狂犬病ワクチンの成功がもとになって、パスツール研究所ができ、免疫学や身体がどのようにして伝染病から治るかということについての学問がスタートしました。そうやって伝染病に対抗する術を研究していくうちに、その現象、「免疫」というのは、伝染病とは関係がないということがわかったのです。
 ちょうどその頃、日本の北里柴三郎という人が結核菌を発見したロベルト・コッホの所で研究を始めます。一八九〇年代に彼が非常に面白いことを発見するのです。ウサギに破傷風やジフテリアなどの毒素を少しずつ注射していると、毒素に対して抵抗性を持つようになります。「この現象は何だろう」と彼は非常に興味を持ったのです。
 そうして、どうも毒素を中和するものが血液の中にできてくるというのを見つけたのです。「毒素」と「毒素を注射されたウサギの血液」を混ぜると、毒素の働きがなくなる。アルカリと酸の中和反応みたいだというんで「中和反応」と呼んだのですが、身体の中に新しくできたこの物質こそが抗体です。抗体ができるからこそ免疫になるのです。
 柴三郎と同じものを共同研究していたのがエミール・フォン・ベーリングです。ベーリングは、第一回のノーベル医学・生理学賞を受賞したのですが、本来ならば柴三郎と共同受賞になってもいいはずです。  


「免疫」は自分と他人を区別する仕組み

 やがて細菌やウイルスのような病原微生物だけでなく、自分とちょっと違ったものに対しては抗体ができるということが発見されます。赤血球なんて形の上では全く同じなのに、ウサギは羊の赤血球を侵すような抗体を作ります。「じゃあ、どうしてウサギは自分の赤血球に対しては抗体を作らないんだろう」ということを疑問に思った人がいました。
 で、「ウサギ同士、ヤギ同士の血液だったら抗体は作らないのか」と思ってやってみると、AのヤギからBのヤギに注射するとこれがまた抗体を作りました。「免疫」というものは、侵入してきた微生物をやっつけて身体を守る仕組み、と考えられていたのだけれども、どうも「自分と他人を区別する仕組み」なのではないか、というようなことに気が付いてきたのです。パウル・エーリッヒという人です。この人もやがてノーベル賞を受賞します。


ヨハネ騎士団



抗原抗体反応

 そうこうしているうちに、今度は北里柴三郎とベーリングが発見した抗毒素という抗体を利用して病気を治すという研究が進みまして、馬に破傷風の毒素を注射して抗毒素(血清)を大量に作らせました。その頃、クリミア戦争などが起こってたくさん戦死者が出るのですが、その破傷風の抗毒素を売り出して、莫大な数の人間が助かったのです。
 これはもう免疫学の勝利だ、というんで当時は喜んでいたのですが、それでは済まなかったのです。なにしろ、馬の血清を注射しているわけです。馬は人間にとって「自己」ではありませんから、これに対して抗体ができるわけです。注射された馬の血清と、自分の作った抗体が抗原抗体反応というものを起こして、腎臓炎とか、心内膜炎、血管炎などのさまざまな病気にかかり死ぬ人がたくさん出てきました。「どうも、免疫というのは身体にいいほうばっかりじゃなく、逆の働きもある」ということに気が付き始めたわけです。


「免疫」とアレルギー

 ちょうどその頃、フランスのポルチエとリシェという二人の学者が、モナコの国王に招待されています。モナコでは海辺で強力な毒を持っているクラゲに刺される事故が多発して、大変困っていたわけです。
 彼らは、犬を使ってクラゲ毒の免疫血清を作ろうとしたのですが、二回目の抗原を注射された犬が、微量のクラゲ毒でショックを起こして死んでしまったわけです。動物の体内にできた抗体が、動物を守らないで逆に殺してしまったわけです。彼らはこの現象に、「無防備」という意味のギリシャ語の「アナフィラキシス」と命名しました。
 ペニシリン・ショックなどのことを「アナフィラキシー」といいます。アレルギーという言葉ができたのもこのころです。アレルギーは、アロース(変化する)とエルゴン(力、働き)という言葉の合成語です。身体の反応が、一回、何か事件があることで変わってしまうわけです。これをアレルギーと言うようになりました。いま、アレルギーは日本の国民病になりつつありますが、このアレルギーという現象の発見も今世紀始め頃のことでした。免疫学が長足の進歩を遂げるのは、この後のことです。
 免疫には、身体を守るほうもあるし、身体にとって有害な反応もあるわけです。免疫という言葉は、もともとの成り立ちから、病気を免れるという意味が表になっていますから、有害のほうをアレルギーと呼ぶわけですが、こっちの方が免疫という言葉を包括していると言ってもいいくらいです。「変化する力」ですから。ともかく、あるきっかけによって初めてそこからスタートするのです。


自己と非自己の区別…特異性

 それでは、どうして一人の人間が自分と他人を区別することができるのか。しかも免疫反応の非常に大事なことの一つに「特異性」というのがあります。
 例えば羊の赤血球に対する抗体は、ニワトリの赤血球には反応しません。一つひとつを全部認識して区別する能力があるわけです。人間のからだ(高等脊椎動物)は、自分と自分以外のもの(自己と非自己)を区別し、その時に一つひとつ正確に見分けていくわけです。どのくらい区別することができるかと言いますと、一億種類以上のものは確実に区別できます。理論的には、十の十二乗、つまり一兆種類というきわめて多い種類のものを区別できるわけです。
 一九四〇年代には、移植の拒絶反応に興味が持たれるようになりました。実際に移植の必要性が生じたのは、戦争でやけどをした場合に、皮膚を移植したいということがあったのですが、絶対にこれはくっつきませんでした。それからまた、外科手術の技術が発達してくるにしたがって、「臓器の移植、つまり部品の入れ換えができないか」と考えたわけです。
 ところが、移植というものは、いったんは必ず血液が流通するようになるのですが、しばらくたつと排除されてしまいます。ここでもちゃんと免疫の基本原理があります。「はしか」に一度罹ると二度と罹りません。つまり、一生、「はしか」にかかったことがある、という「記憶」が残るわけです。これを免疫学的な「記憶」といいます。移植の場合も、ある人から皮膚をもらうと、その人の皮膚はもう二度と受け付けないということで「記憶」が残ります。つまり、一回目の反応と二回目の反応は質的に違うわけです。
 同じ人間同士で、遺伝子から見ても九九%まで同じ、蛋白質としてはもうほとんど違いがありません。それなのに免疫系は、何百万人の一人ひとりの違いを区別しています。その識別をしている分子はどんな構造を持っているのか、単に識別しただけでなく「記憶」が成立し、相手を排除し、アレルギーを起こします。
 「こういうさまざまな生体反応の仕組みは、一体どうなっているんだ」ということに興味が持たれるようになったのが、たかだか今から四十年ほど前の一九五〇年代からです。その辺りから免疫学というものが、非常に活気づいてきたわけです。


遺伝子と免疫

 一九六〇年代になると、今度は細胞の働きが少しずつわかってきたわけです(細胞免疫学のスタート)。さらに一九七〇年代には遺伝子の解析がスタートしました。これによって免疫系の遺伝子の動きを証明したMITの利根川先生がノーベル賞を受賞しました。このように、他の生命科学と免疫学が手を結ぶようになって、非常に長足の進歩をするようになります。
 そうして、一九七〇年代から八〇年代にかけて、「自己とは何か」、自己以外のものを区別して識別するような分子はどんなものか、そういう著しい多様性を作り出している遺伝子の仕組みはどうなのか、識別した相手にさまざまな反応を示す仕組みはどうなっているのか、というようなことが段々と解明されてきて、いわゆる免疫学の黄金時代になるわけです。
 一九九〇年代になると、発生生物学からスタートした「ノックアウト・マウス」の技術が入ってきて、いろいろな遺伝子欠損マウスを作製することで、個体レベルでの免疫系の異常(免疫不全症、自己免疫病など)と、遺伝子の機能が直接結びつく形で解析されるようになってきました。
 現在我々も、ノックアウト・マウスの技術と遺伝子レベルでの発現調節機構の解析技術を用いて、「一体、身体の中で何が起きているのか」という疑問に、分子レベルで答えるために日夜研究しているわけです。これが大ざっぱな免疫学の歴史です。


肌で感じてほしい「免疫学」

 これからも分かるように、現在の免疫学はものすごいスピードで進んでおります。私も一年前の一九九七年九月に広島大学に赴任して、十月から医学部三年生の授業を行ったのですが、その時に一九九七年に書かれた免疫学の教科書を使いました。
 しかし、半年間の授業の間に何度も「今週、この論文が出たので、先週までなら教科書に書いてあるこの部分の説明は正しかったが、今週からは間違いです」というような説明をしました。
 医学部の三年生に授業をしても、彼らが六年生を卒業して医者になるときには、免疫学はものすごく変貌を遂げているはずです。そこで、教科書を、枝葉末節まで丸暗記しても将来なんの役にも立たないのです。あくまで、免疫学のエッセンス、免疫学的な考え方を身に付けてくれれば、と思っています。
 そこで、読者の皆さんのなかに免疫学に興味を持たれる方がいたら、お願いですから、教科書を読んで暗記しようなどとは思わないで下さい。「百害あって一利なし」ですから。刻々と変化する今の免疫学を肌で感じて下さい。
 もっといろいろと書きたいことがあったのですが(「エイズの気持ち、第四のリンパ球、寛容とは、免疫力の強い人ほど病気になりやすい、病は気から」など)、免疫学の歴史を書いただけで、広大フォーラムの予定のページ数を大幅に越えてしまったので(この文章も字数制限のため、オリジナルをかなり割愛してあります)、他の話はまたの機会にして、この辺で筆をおきます。


 プロフィール
(かんの・まさもと)
◇一九五三年生まれ
◇千葉大学大学院医学系研究科修了
◇一九八三年から千葉大学医学部環境疫学研究施設免疫研究部助手
◇一九八五年 イギリス・ケンブリッジMRC分子生物学部門へ短期留学
◇一九八七〜九一年 フランス・ルイパスツール大学医学部医化学研究所・研究員
◇一九九一〜九七年 千葉大学医学部高次機能制御研究センター免疫機能分野講師・助教授
◇専攻分野:分子免疫学、分子生物学、細胞生物学など
◇一九九七年より広島大学医学部免疫学・寄生虫学講座教授
◇最近の研究:細胞増殖と細胞死のバランス調節機構

 

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