五十年史編集室だより(3) 


 正史の文化とアーカイブズの文化の間 

五十年史編集専門副委員長 大林 正昭


日本の大学史と欧米の大学史 
 新制大学発足五十年を控え、日本の多くの大学で大学史の編纂が進んでいる。わが広島大学もまた例外ではない。海外でも大学史の刊行は盛んである。たとえば、イギリスではA History of the University of Oxfordが最近刊行された。しかし、一見同じようで、彼我の大学史には大きな違いがある。
 日本の大学史編纂は、まず大学の事業である。特別の予算が組まれ、編集スタッフが任命される。できあがった大学史は大学名で刊行され、大学は著作権を持つとともに記事内容に対する責任を負う。一方、欧米の大学史にあっては、大学当局が何らかの形で関わる場合でも、通常個人の著作として刊行される。A History of the University of Oxfordも複数の研究者の著作である。
 個人名で書かれない日本の大学史では、個人的見解は極力抑えられることになる。事実を淡々と記述し、著者の私見を加えていないように装う。この著者が少し大胆になれるのは、栄光の歴史について記述する際である。かくして、無難なそして栄光に満ちた大学史ができあがるのである。


正史が正史となる理由
 中国では古代より歴代王朝が歴史書を編纂してきた。我が国も中国の例にならった。これが正史である。正史は個人的な著作ではなく、したがって著者名も記されない。日本の大学史は正史の伝統を継承しているといえよう。 東洋世界で正史が編まれてきた理由は単純ではないが、政権の正当性を主張し、治績を顕彰するという動機が大きかった。正史は権力者の意向を代弁するものであり、権力者にとっての正しい歴史なのだと評することもできる。
 正史の執筆者がすべて、政権への忠誠心に燃えた律義者であったわけではない。それにもかかわらず、正史は正史となり、正史としての権威を保持できたのはなぜだろうか。その理由は史料にある。正史執筆者が駆使したのは莫大な内部文書(行政文書)である。正史は誰がどういう思いで書いても、大筋で政権に奉仕するようになっていたのである。しかも、史料が非公開だったので、恣意的な史料操作も可能であった。


アーカイブの文化
 東洋世界が正史の文化であったのに対して、欧米文化はアーカイブズ(文書館)の文化であった。欧米では、国にも大学にもたいがい立派なアーカイブズがあり、大量の資料が専門の職員(アーキビスト)によって整理・保管されている。アーカイブズの資料は公開されており、訪れる者はその整備ぶりに驚かされる。アーカイブズが発達した欧米では正史が作られなかったのは、偶然ではない。全ての資料が公開されれば、権力者によってオーソライズされた「正しい一つの」歴史像は無意味であり、正史は成り立ち得なかったのである。


情報公開と大学史
 現在、日本は情報公開の時代を迎えた。正史的大学史もまたも転機を迎えている。一例を挙げよう。今まで刊行されたどの大学史にも、入学試験に関する記述はある。受験者数や合格者数が記述されていることが多い。しかし、なぜか試験の成績に関する記述はなされない。
 広島大学では、入学試験の結果に関するデータが毎年冊子で刊行されている。しかし、この冊子は学内のごく少数の関係者にだけ配布される「取り扱い注意」の文書である。従来の感覚からすれば、これを大学史の記述に用いることには抵抗がある。このデータが公開されることになれば、入学試験成績の推移が記述されることになるかもしれない。入学試験成績の推移は、栄光の歴史であるとは限らない。


正史なれど
 無難なそして栄光に満ちた大学史記述は、過去のスタイルになりつつある。新しい大学史記述のあり方は、いかにあるべきだろうか。
 第一のキーワードは、顕彰ではなく検証ということになろう。広大五十年の歴史で最大の出来事は、統合移転である。統合移転についていえば、その経緯を明らかにすることは当然として、統合移転の影響や効果について検証していくことが課題となろう。
 第二のキーワードは、日常である。大学の基本機能である教育・研究活動は、日常的な活動である。大学を構成する教職員・学生の日々の営為の積み重ねが、広島大学の五十年であったはずである。制度の改変・拡充について記述することは、正史の本領であった。正史が見過ごしてきた日常に光を当てる努力が必要であろう。
 正史の分をわきまえつつ、新しいスタイルを模索することが求められているのである。

(一九九八年九月二十九日)

50年史編集室ホームページ http://www.ipc.hiroshima-u.ac.jp/~nenshi50/

 大学史の散歩道 

初代広島大学長森戸辰男の引退
 昭和25(1950)年4月19日に新制広島大学の初代学長に就任した森戸辰男は,2期連続13年間の長きにわたり学長を務めた。
 森戸学長は,学長就任に際し,広島大学を平和都市広島の文化的・精神的中心に育てることを理想に掲げた。この理想実現の第一歩として,フェニックスの植樹等,キャンパスの緑化に積極的に努めた。「緑は希望と青春の色,大学は赤い破壊と流血の色ではなく,平和の緑色でなくてはならない」という平和主義がその根底にあったからである。
 昭和38(1963)年3月30日,退職にあたり森戸学長は,「広島大学は外観は立派になったが,大学で一番大切なことは,外観や設備ではない。学問的な内容だ。今後とも教育の水準と質を高め,中四国の中心大学にふさわしい大学になってほしい」と語った。
 写真は,教官や事務局員ら約300名の拍手に送られて,思い出多いキャンパスを去る森戸学長。その笑顔からは重任を終えた安堵感と満足感とが窺える。森戸学長の後方には,感涙にむせぶ人の姿もある。
 創立から50年を経ようとする今,森戸学長の理念はどう息づいているのだろうか。検討作業はようやく緒に就いたばかりである。なお,森戸辰男氏旧蔵文書の整理・研究作業については,現在森戸文書研究会のもと,50周年記念事業としても行われている。

(小宮山 道夫)


 教職員に見送られて広大を後にする故森戸辰男学長。写真は森戸学長の秘書役を務めた西村博氏(元政経学部講師)提供のもの。50年史編纂のことを知り,「少しでもお役に立てれば」とご寄増いただいた。
 
業務日誌抄録

6・3 五十年史編集室のホームページ一般公開開始。
6・9 尾崎雅章氏より資料受贈。
6・15 東北大学記念資料室より「資料室所蔵品目録」他一点受贈。
6・23 西村博氏より森戸辰男氏関係資料受贈。
6・26 第五回幹事会。
6・29 三浦精子氏より明治・大正期のアルバムを借用。ホームページ更新。
7・3 松村幹男名誉教授(教育学部)より資料受贈。
7・8 広大生協より入学・卒業アルバム二十七冊を借用。
7・9 印刷デザイナーコンペ説明会(十四社参加)。
7・10 武田弘氏より武田章氏(元文理大副手)旧蔵資料を受贈。
7・13 第二回研究会。 報告…寺崎昌男氏(桜美林大学教授)「大学史編纂事業の現状と課題について」
7・17 第六回幹事会。
7・21 菅野義信名誉教授(歯学部)より資料借用。アンケート「『広島大学五十年史』編集 のための資料・情報調査」を名誉教授・旧職員中心に七一四通発送。
7・23 森岡祐二氏より資料受贈。
7・24 印刷デザイナーコンペ応募締切日(十二社・二十五作品が応募)。
7・27 水戸滋夫氏より資料受贈。
7・28 守康則名誉教授(福山分校)、浅川末三名誉教授(水畜産学部)より資料受贈。印刷デザイナー第一次審査。
7・29 片岡徳雄名誉教授(教育学部)より資料受贈。
7・31 第二回編集専門委員会。
8・3 印刷デザイナー第二次審査。
8・6 広島大学原爆死没者追悼式及び故ニック・ユソフ氏墓前法要出席(三澤・小宮山)。
8・10 第七回幹事会(印刷デザイナーを阿瀬川誠氏に決定)。
8・11 高岡聖氏より資料受贈。
8・17 増田茅子氏より資料受贈。
8・21 村上一郎名誉教授(理学部)より資料受贈。
8・25 森戸冨仁子氏(松下視聴覚教育研究財団副理事長)、桜林正巳氏(同事務局長)来室。
8・31 在川龍記氏より資料受贈。
9・3 事務局総務部から統合・移転関係資料を移管・搬入。
9・8 岩田宣芳氏より故小林利宣名誉教授(教育学部)旧蔵資料三十七点を借用。
9・9 桜井文子氏より、桜井役氏(元学長事務取扱)旧蔵資料を借用。
9・14 アルバイト作業開始。
9・17 旧企画調査課所蔵のアルバムを借用。
9・21 正藤英司氏(工学部助教授)と写真撮影について打ち合わせ。



〈連絡先〉50年史編集室 電話 0824(24)6050 FAX 0824(24)6049
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