開かれた学問(69)

   「民事判決原本」拾遺   

文 写真・加藤 高 紺谷 浩司

 「広島県裁判所」てなんだろう。わが国の近代的法=裁判制度は、明治維新以後、欧米から摂取しながら発達していったものだが、とりわけ明治四(一八七一)年七月十四日廃藩置県断行を境に、三権分立の思想を軸として強力に、それらは明治政府の手で実現していった。
 しかし、明治初期の頃の法=裁判状況には、ことに、中央から地方に目を転じるならば、不明な部分が多い。 たとえば、筆者らが昨年七月行った、広島地方裁判所所蔵の、明治期に限定した民事裁判史料の共同調査で、明治五年から同九年中の『裁判申渡案』(写真1)に初めて接した。しかもその中で「広島県裁判所」(写真2)という、今まで郷土史関係の書物でも取り扱ったことがないと思われる裁判所名が見られた。明治五年から同九年代まで府県裁判所の設置が企図されながら全国的には実現せず、また設置された裁判所も、たとえば東京裁判所と府や県を付けないのが正式名称だった。
 本稿の一では「広島県裁判所」とは何かを追及する。二では、判決原本のなかで見つけて興味をひかれた事件(写真3)を紹介する。なお、プライバシー保護のため、氏名は△△、○○等で示す。

 
一、明治初年の「広島県裁判所」について


中国地方諸県の行政と司法の融合

 廃棄を免れた明治初年代からの「民事判決原本」が、十の国立大学に移管されたのは、平成七(一九九五)年三月頃と聞いている。ここ広島大学法学部にも、広島高裁管内の広島、山口、松江の各地裁や支部、簡裁から、「民事判決原本」が大量に運び込まれた。
 ところで筆者は以前より、日本の法=裁判制度の近代化にも関心を寄せていた。とくに明治期、民法制定(明治三十一(一八九八)年施行)以前、フランス民法典(早くから翻訳・研究などされていた)が民事裁判実務に大きな影響を及ぼしていた、という当時よりの識者の言説に興味をもっていた。
 そこでたまたま松江地裁の民事裁判文書類に接したところ、明治五(一八七二)年頃からのものが目に入った。調べているうちに、裁判所設置(松江地裁は正確には明治九(一八七六)年十二月一日開庁)以前、島根県成立当初の頃から、県庁内に「聴訟課」なる裁判事務課が設けられており、民刑事の裁判を行っていたことが明らかになった。
 以来筆者は、中国地方諸県の、行政と司法混合─もっとハッキリ言えば、行政優位、行政の道具としての司法という感じがする─の時期である明治初年代の民事法=裁判(刑事裁判についてはここでは触れない)の実情につき、付かず離れずの関心を抱いて今日に至っている。

(写真1)広島地裁蔵



破棄される運命にある民事裁判史料

 そこで今回、「民事判決原本」の大学移管を契機に、この原本以外に、数多くの民事裁判記録等文書(以下、民事裁判史料という)の処遇が気になったので、その学術史料的価値の重要性を話題にした。
 その結果、幸い広島大学法学部の紺谷浩司教授(民事訴訟法)を研究代表とする、民事裁判史料の調査チームが発足した。文部省より平成九年度から二年間の科学研究費の補助を得て、広島高裁管内の五地方裁判所・同支部(広島、山口、松江、鳥取、岡山)を廻り歩いて、民事裁判史料の現状調査を行っている。
 この際、広島高裁の藤田耕三長官、桜井文夫長官をはじめ、同高裁の小西秀宣事務局長のほか、実に多くの関係各位のご理解とご協力を頂いたことに深甚の謝意を表したい。
 今回の調査の目的は、要するに、判決原本以外に少なくとも明治期における民事裁判史料としては、どのようなものが現在裁判所に保管されているのか、その現状を知ることである。民事判決原本を除くと、それらは現時点では確実に廃棄される運命にあると聞いている。研究者の一人として、できる限り大学移管を含め最終的には、廃棄以外の措置を講ずるよう働きかけ、後世の研究に役立てることを強く願っている。    


「廣嶋縣裁判所」とは…

 そのようなわけで、昨年七月、広島地方裁判所を訪れ、裁判所側のご理解を得て調査した。
 意外に思ったのは、戦前幾度かの災厄─昭和二十年八月六日の原爆によるものが最たるもの─にもかかわらず、明治十(一八七七)年以前の裁判史料が見つかったことである。
 広島大学法学部には、広島地裁本庁から移管された判決原本は、明治十年以降からしかない。今回、明治五年から同九年の『裁判申渡案』のほか、明治七年からの『訴状受取録』を見たときの驚きと嬉しさは格別であった。というのも、広島県庁で裁判が行われていた明治九年十二月に、県庁(当時、国泰寺に県庁があった)が火災で焼失したという記録が残っていたからである。
 『裁判申渡案』は明治五年から同九年までの各種民事事件のうち、九十五件についての判決案であるが、実質的には民事判決原本に相当すると思われる。その内容を散見するうちに、明治九年代の判決言渡書の用紙がそれ以前の用紙と異なっていることに気が付いた。
 前半は半葉が黒線引縦八行ないし十行で一葉の中央部分に、広島県名(ただし、旧漢字)の印刷が見られる用紙であったのが、明治九年代では半葉が青線引縦十二行で一葉の中央部分に「廣嶋縣裁判所」と印刷された用紙に変わっていた。
 このような裁判所名は司法省刊行『司法沿革誌』の明治九年代には見当たらない。調査後、この点を『広島県史』などの郷土史を中心に調べることにしたが、徒労に終わった。ただ、県立文書館などで明治九年代の広島県布達や広島県史料などを通して、少しずつその存在や性格が明らかとなってきた。ただ、明治初期の司法=裁判(所)制度を知るには、地方制度との関連でみておく方がよいだろう。以下、簡単ながらこの点に触れる。


(写真2)「広島県裁判所」とある






明治初期の行政と司法の混合未分離

 明治四(一八七一)年七月の廃藩置県で、一旦はすべての藩がそのまま県となる。しかし以後、県の統廃合の結果、三府七十二県に整理された。その上で県治条例が制定された(四年十一月二十七日)。これは明治以降の最初の全国統一的な地方制度であり、新しい官治行政体制を定めたものである。
 各県には中央から任命された県令・参事を首脳として、四課に分かれた県治事務を統轄する。この県治事務課の中に、当時「聴訟課」という民刑事裁判事務課があり、県令等が当然に首席裁判官となり、課員が裁判事務を取り扱った。この行政と司法の混合未分離の状態は、明治八(一八七五)年十一月三十日「府県職制事務章程」まで続いた。
 他方、明治五(一八七二)年八月に、「司法職務定制」制定。全国府県に府県裁判所設置を企図するが、実際には三府十二県しか明治七年代までに設置されなかった。ようやく明治八(一八七五)年五月に、大審院以下府県裁判所設置が定められるが、この段階では全国四十七県に裁判所がなかった。そのため、裁判所なき県では地方官が判事を兼任した。
 ところで問題はさきに見たように、明治八年十一月三十日に県治条例廃止となり、新しい府県職制中、もはや聴訟課がなくなったことである。しかも府県職制末条には、県令等の判事兼任の諸県では、裁判事務は「従前ノ定規」に依るべきと定めていた。そのため元聴訟課の裁判担当者は、まるで"宿借り"の主のえびが貝殻から追い出されてハダカ同然でいるような状態に置かれたのである。  


「裁判所なき県」での苦肉の策

 このように、明治九年には、中国地方の諸県(山口県は別格)を含む全国の裁判所なき県では、国が裁判所を設置するまで待てないほどの民事出訴事件の激増の波 の前で、裁判事務上、某県裁判所という名称で裁判活動を行うことになった(たとえば、浜田県、島根県、鳥取県、岡山県、東北地方では岩手県など)。
 結局、某県裁判所とは聴訟課がなくなり、しかも民(刑)事裁判事務を扱わなければならなかった裁判所なき県が、自らを正規の裁判所でないことを認め、それらと区別する意味で、たとえば「広島県裁判所」というような名称を用いたものと思われる。
 ただ前記の他の諸県では、各県布達で特定の日付で呼称変更を各県内に示しているが、広島県の場合、そのような布達は今のところ見出しえない。それと府県裁判所は、明治九(一八七六)年九月に地方裁判所と改置され、明治九年末頃にはほぼこれまでの変則的な状態は解消していくが、広島県だけは「広島県裁判所」が明治十年五月頃まで存在していたようである。ただその間の事情は今後の検討課題である。(加藤 高)  



二、「妻取戻し」の件について


 本件は、広島地方裁判所の『明治十年民事裁判言渡書綴』のなかで見つかったもので、事件名は「妻取戻」とある。

事件の事実関係

 本件は、夫から妻の実家の家長を相手取って上記の訴えが提起されたようである。妻の兄が家長のようである。 原本に記載されている事実関係は以下のようである。すなわち、
(一)原告代理人の主張によると、原告△△△△は、明治五年二月、被告□□妹○○と婚姻して以来、夫婦の間は睦まじく格別争いを生ずるようなこともなく暮らしてきたが、明治七年一月七日、○○は実家の妹が他家へ嫁ぐので、里方へ行きたいというので、行かせたところ、二、三日たって妹の結婚式の際に衣類等が必要だと いって、いろいろの道具を持ち帰り、そのまま日にちを重ねても帰ってこない。そこで、様子を探ったところ、妹の縁談を口実に衣類などを持ち帰ったようなので、いろいろ掛け合ったところ、突然離縁(離婚)を求めてき、帰ろうという気配もない。
 戸長役場などへも説得を頼み、終には今年春、広島県裁判所へ勧解(調停)の申立てをしたが不調に終わった。すでに三年以上になるので、この度、再度、勧解を申し立てたが、また不調に終わった。そこでやむを得ず、本件訴えを提起するにいたった。
 これほどまで熱心に努力したが、これは決して欲情からのことではなくて、もともと妻が里帰りをしたときは懐胎しており、実家で出産をし子供だけを引き渡したので、朝夕の養育も行き届き難い。後妻を娶ってその子の養育を任せても真実の親子ではないので、子どもの性格が素直に成長しないのは世間一般の道理なので、ぜひ妻の帰るのを希望する。速く帰ってくれるよう裁判をしていただきたい、と述べた。
 被告代理人は、以下のように答弁した。すなわち、○○は結婚以来、夫との間が睦まじくないので、明治六年七月に、一度離婚の話し合いをしたが、媒酌人などの周旋により、いったんは仲直りをしたが、それでも争いが止まないため、とうとう明治七年一月に実家へ帰ったようなわけで、結局、その争いの元は○○が結婚する前に、実父が○○のことを心配して、耕地を若干与え、万一離婚をするようなことになっても、兄に面倒をかけなくて済むように備えたものであるが、夫がそれを手に入れたくて、○○がそれを持参しなかったことを責め、朝に夕にひどく文句を言うのに耐え難く、妹の縁談に際し実家に帰り、ついに夫へ談判のうえ、離婚の承諾を得、衣類その他の道具を持ち帰り、籍を抜くことも約束したのに、その後、放置したままで約束を果たそうとしない。
 ついに戸長役場へ送籍の説得を願い出たけれども、いっこうに承知しないのみならず、本年にいたって夫から二度にわたり妻取戻しの勧解(調停)の申立てをした。その申し分は理由がなく、速やかに離婚をすべき旨を〔勧解者に〕理解していただいたけれども、夫はなお承服しない。
 当方から離婚の勧解の申立てをしたが、これにも不服を申し立て、おまけにこの度はまた不当の訴を提起したのは、甚だ理由のないことで、そのため他家へ嫁がせることもできず、実に迷惑をしている次第なので、迅速に離婚と送籍をしてくれるよう裁判を受けたい、と。  



(写真3)第二條の末行に「婦人ノ権利」の話が見える



判   決

 以上のように、当事者双方の主張は対立しているが、それに対する判決の内容は、現代語に直すと以下のようになろうか。すなわち、
 第一条 結婚以来、夫婦の間が睦まじかったか否か、あるいは耕地衣類等の件については、双方とも証拠を出さず口頭で主張しているだけであり、その主張が相反するので、その真偽を審判する根拠がなく、採用することができない。無効の陳述である。
 第二条 ○○が熱心に離縁を求め、再び婚家に帰るのを拒んで、夫との間がうまくいくようにならなかったが、夫がわざとこれを牽制し、なお妻の取戻しを訴えてはいるが、○○が実家で分娩した子どもだけを受け取ったのは、すでに離婚を黙示的に認め、その一部を実行したものといえる。
 にもかかわらず、三年間もの間、送籍を承諾せず、○○が再婚することができないようにしているのは、「苛害ノ所行ヲ以テ、婦人ノ権利ヲ抑圧スルモノ」である。
 第三条 ○○が実家に滞在するようになって三年以上になるが、原告が食料雑費等を一切負担しないのは、妻を養うという義務を果たさず、自ら夫婦の交誼を放棄したものである。
 第四条 以上の理由によって…、原告の申立ては正当な理由がないから、速やかに離婚を認めるべきである。そして、第五条では、訴訟費用を原告が負担すべきであると判示している。
 本文に続き、明治十年九月の日付の下に裁判官三名の署名と捺印がある。  


本事件からみる「離婚」と「婦人の権利」

 本判決がわれわれの注意を引いたのは、まず、表題が「妻取戻し」という珍しいものであったことである。現在なら、夫から妻を相手とする「夫婦の同居請求事件」として、家庭裁判所へ調停または審判(裁判の一種)を申し立てることになろう(家事審判法九条一項乙類一号)。まず調停委員会の調停を経て、(調停が成立しなければ)家事審判官(家裁の裁判官の呼称)の審判によって、同居請求の可否について判断が示されることになろう。
 つぎに、判決では、夫が子どもの引渡しを受けたことによって、事実上、離婚を承諾したにもかかわらず、なお三年間にもわたり送籍を承諾せず、妻が再婚することができないようにしているのは、苛酷な行動であって、「婦人の権利を抑圧するもの」と判示している。この「婦人の権利」という言い方が、明治十年という時期を思えば、非常に思い切った言い方ではないかと思われる。
 女性側から離婚を求めることが認められるようになったのは、明治六年(五月十五日太政官一六二号)からで、離婚が急増したようである。明治三十一年、民法の施行によって離婚率が半減した。
 「婦人」の語がいつから使用されるようになったかは詳らかにしないが、ごく早い時期の使用例であろう。また、「権利」の語は、オランダ語のregtの訳語といわれている。当初は「権理」とも書かれた。ここでは、現在一般的に用いられているような表記がなされている。そして、ひょっとしたら、本件が「婦人の権利」という用語を最初に用いた事例であるかも知れない。
 子どもの引渡しによって、事実上、離婚を黙示的に承諾しその一部を実現した、というのはやはり家族制度的な思考が窺われる。
 日常会話のなかでは、離婚の意味で「離縁」ということがよくある。「離縁」は、現在の法律用語としては養子縁組の解消を意味するが、古くから「離婚」と両方を含んでいた。
 また、勧解(調停に相当する)制度の制定(明治十七年)に先立って、勧解が行われたことがわかる。 なお、判決書の用紙には「広島裁判所」と印刷されている。そして本判決の言渡しや送達の正確な日付は残念ながらわからない。(紺谷 浩司)  


 プロフィール

(かとう・たかし)
◇一九三五年 京都市生まれ
◇一九六三年 京都大学大学院法学研究科修士課程修了
◇広島修道大学法学部教授
◇専門=民法。フランス近代家族法史に関心をもつ旁ら、フランス民法が明治期の民事裁判に「条理」として及ぼした役割にも関心を持つ。

 

(こんたに・こうじ)
◇一九四一年 富山県生まれ
◇一九六七年 京都大学大学院法学研究科修士課程修了
◇広島大学法学部教授
◇専門=民事訴訟法。裁判における手続保障の問題と裁判外紛争処理制度に関心をもって取り組んでいる。 

 

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