自著を語る

『抄物の世界と禅林の文学
─中華若木詩抄・湯山聯句抄の基礎的研究』

著者/朝倉 尚
 (A5判,592ページ)16,000円
 1996年/清文堂
第19回角川源義賞受賞

文・ 朝倉 尚


 自著について語らせていただくことになった。が、副題が示すように、本書は概論書や啓蒙書ではなく、筆者がそれまでに発表していた論文に新稿をも一部分加えて、一書の体裁に整えたものである。


抄物・中華若木詩抄・湯山聯句鈔

 本朝の禅僧が各種の作品を註釈・解説したいわゆる「抄物」の代表的作品が、「中華若木詩抄」(「詩抄」と略称)であり、「湯山聯句鈔」(「句鈔」と略称)である。「詩抄」は、室町時代末期に活動した、なかば謎の禅僧如月寿印が、中国の詩人と日本の禅僧の詩作(中華若木詩)に対し、註釈・解説を加えたものである。「句鈔」は、同じく室町時代末期の明応九年(一五〇〇)五月五日より同二十三日にかけて、禅僧である寿春妙永と景徐周麟が湯山(有馬温泉)に出かけた折に興行・応酬した千句の聯句(湯山聯句)に対して、一韓智 が註釈・解説を施して、永正元年(一五〇四)八月二十日に成立した。
 「詩抄」に対した筆者は、如月の詩作収集の態度と、註釈・解説の内容とを分析、検討した。当代の禅僧が愛好した詩作の実態を知ることにより、禅林の文学の特徴を解明することを目的とした。
 「句鈔」に対した筆者は、禅林の聯句が「一座の聯衆が、現前の景や共通に理解の可能な心情を素材として、先行の諸文芸よりもっとも密接に関連した典拠を用いて表現し、二句一聯によって最小単位のまとまりある世界を共同で築き上げようとした文芸である」と定義するに至り、歴史的変遷や内容や表現面での特徴について検討を重ねた。長句(五七五)と短句(七七)とを交互に連ねる連歌に対し、原則として五言の漢句を連ねる聯句を対象とした研究は遅れていた。


『中華若木詩抄・湯山聯句鈔』の刊行

 自著が誕生するについては、直前に刊行された『中華若木詩抄・湯山聯句鈔』(岩波書店、平七)に触れざるを得ない。この註釈書は、新日本古典文学大系の中の一冊である。斯界の権威である大塚光信(国語学)、尾崎雄二郎(漢学)両先生との共著であるが、筆者自身については、当初予定されていたお一方が死去されるという事態が起きたため、急遽加えられたという、少しく数奇な経緯を持つ。かくして、国語学関係の施註を中心に予定されていたにもかかわらず、禅林の文学(五山文学)の観点よりの施註が大幅に増加することになった。詩抄・句鈔の脚注部の「▽」(鑑賞注)は、弱輩を顧みずほとんどお任せいただいた。先生方のご寛容なしには実現しなかったし、また一面、自分自身の強引で厚顔無恥な性格を新発見した思いがする。


価値の転換(禅味)と博引旁証

 自著の刊行は、既発表の論文を再構成して一書に編んだものであるから、新稿を若干用意するほかに、さしたる新たな成果があった訳ではない。前掲の注釈書の刊行を機に、出版社・清文堂の好意があって、急速に実現したものである。
 禅林の文学(五山文学)の研究を志す筆者にとって、一つの負い目があった。それは、自分の研究していることが国文学なのか、漢文学なのかという素朴な疑問である。この解答を求めての遍歴が、わが前半生の研究であったと思う。「詩抄」「句鈔」への取り組みもその一端に過ぎない。
 その結果、禅林の文学の特徴として、一つには内容面における俗世界の価値観の一新・転換があり、一つには表現面における観念的世界の展開が存在することを指摘するに至った。前者、価値の転換は、禅的な発想・禅味に直結する問題である。後者、観念的世界の展開は、伝統的な文学基盤の上に立った佳句や名句の典拠をいかに展開するかであり、博引旁証に直結する問題である。
   そして、何よりも右の二点は、中世を代表する国文学もが具有した特徴でもあると考えられる。例えば、和歌(本歌取り)や連歌や能楽(謡曲)の特徴にあてはまることは容易に了解されることであろう。かくして禅林の文学(五山文学)も、どうやら中世国文学の一分野としても論ずることが可能であるのみならず、むしろ積極的に論ぜられなければならないのではないかという意義を確信するに至ったのである。
 自著では、これらの特徴を強調しており、したがって、中世国文学研究の世界・中世国文学界に身を置く自らの、拠って立つ基盤をささやかに示している。


プロフィール        
(あさくら・ひさし)
◇一九四二年 大阪市生まれ
◇一九七○年 広島大学大学院文学研究科博士課程(中世国文学専攻)単位取得
◇岡山大学教養部助教授を経て、広島大学総合科学部教授(日本研究講座)

            




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