広い視野で果敢に挑戦を 

文・古室雅義
海上保安大学校教授

バランス感覚良く、信頼性高い

 私は現在、海上保安大学校に勤務しています。この学校は運輸省の外局である海上保安庁の幹部養成学校として、一九五一年(昭和二十六年)に設立されたもので、呉市に開校されています。一学年の学生は約五十名程度で、四年間の教育を受ける間、公務員としての給料が支給され、卒業時には文部省の学位授与機構から学士の称号が授与されます。卒業後は半年間専攻科に進学し、百日間の世界一周航海を経験します。そして、全員が全国各地の海上保安庁の出先機関に勤務します。教育目的がはっきりしており、学生の就職探しに教官が悩まされることは全くない学校です。
 海上保安大学校の教官は現在六十八名いて、このうち六名が広島大学出身です。それぞれの専門が違っていますし、この六名が意見を合わせて行動をとっているわけでもありません。従って、本校における「広大カラー」というのが出ているとも思えませんし、また私自身「広大カラー」というのはどんなカラーかもわかりません。他大学から来た先生方と比べてみてそんなに違いがあるとも思えませんが、本校の広島大学出身者はおおむねバランス感覚がよく、信頼性が高いという評価を得ているようです。
 私はこの学校で化学の教官として一九七三年(昭和四十八年)から教鞭をとっています。また、海上保安庁の職員に対して開講されています研修において、鑑識、鑑定、あるいは危険物などについての講義や実習を担当しています。さらに、海上の環境保全に関した研究を行ったり、海上で起きた化学に関係した事件、事故等に対しましても現場の捜査官にアドバイスしたり、それについての鑑識、鑑定を行うこともあります。
 私はこのように化学に関係した仕事を行っていますが、広島大学理学部物性学科の第一回の卒業生です。一九六四年の年明け、当時私は受験目前の高校三年生でした。この年に東海道新幹線が開通し、また東京オリンピックが開催された年に当たります。
 当時の新聞に「広島大学に物性学科設置」と出たのです。瀬戸内海臨海工業地帯の産業界に新しいタイプの人材を供給するため、従来の物理学科、化学科という枠組みでなく、物理学と化学の境界領域を重点的に行う学科を創るということでした。
 理系科目に興味を持っていた私には、未知の分野といった感じもあり、大変新鮮に映ったのです。この新聞記事が私の大学受験の進路を決めてしまったようです。勿論、広島文理科大学から受け継がれた伝統ある大学で、中四国一というイメージはありました。


時代の先を読み、常に新陳代謝を

物性学科発足当時のカリキュラムは、物理学系の科目と化学系の科目が全く同じ単位ほど開講されていて、物性学科としての学問体系を成しているかどうか若干疑問を感じました。しかしながら、両者の学問の考え方、研究上の発想、あるいは研究の進め方などの違いが、指導して頂く先生を通してわかってきたと思います。そして、これは大変大切な体験であって、幅広い発想の源になったと思います。これまでのいろいろな難局を乗り越えてこられたのも、この教育のお陰だと思っているのは私だけではないと思います。
 その物性学科も今年物理学科と一緒になり、物理科学科として生まれ変わりました。最初の卒業生が出てからちょうど三十年で物性学科は幕を閉じましたが、今も活躍中の物性学科卒業生は大勢いますし、在学中の学生もいます。社会における物性学科の使命はまだ終わってはいません。私も物性学科の卒業生の一人として、今後も研究面では広島大学と関わりを持ちながら、広い視野で教育・研究に取り組んで行きたいと思います。
 来るべき二十一世紀は、世界がもっと身近なものになってくると思います。大学は時代の先を読み、常に新陳代謝を行って、果敢に世界に挑戦をしてゆくべきです。学生諸君は大学の中では身体に例えると血液に当たると思います。この血液が真っ赤になって躍動してこそ大学の躍進があると思います。そのために幅広い知識と、柔軟な頭、そして世界をしっかりと見る目を養って下さい。
 東広島市に移転した広大キャンパスはそれを囲む環境とともに年々素晴らしくなり、まさにこれからの二十一世紀に相応しい大学になってきたと思います。母校の発展は、我々卒業生一人ひとりの誇りです。学生諸君の健闘を祈ります。

プロフィール
(こむろ・まさよし)
◇一九四五年 台湾台北市で出生
◇一九六八年 広島大学理学部物性学科卒業
◇一九六八年 広島大学大学院理学研究科物性学専攻進学        
◇一九七三年 海上保安大学校講師
◇一九七五年 広島大学理学博士
◇一九七八年 海上保安大学校助教授
◇一九八六年 同教授

中央の白衣姿が筆者




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