大学で、社会で、学んだこと
 ─学生時代に人生の目標を築いて 


文・津野 陽子
中国新聞社記者

活字の世界にあこがれる

 広島に来て早いもので十年以上になります。愛知県で生まれ育った私が、こんなに長く広島にいるようになるとは、大学に入学したときには思ってもみませんでした。この地にそれだけ縁があったのでしょうか。
 私は今、中国新聞編集局校閲部で働いています。原稿や見出しが正確に書かれているか、不適切な言葉が使われていないかどうかをチェックする仕事です。まだこのセクションにきて一年で、それまでは国際部、岩国支局、報道部と取材部門だったため、慣れないことも多く、間違いに気付かずそのまま通しては、デスクに怒られている日々です。
 小さいころから本が好きだった私は、活字の世界に大きなあこがれをもっていました。それと、いろんな人に出会えること。この二つの理由で、高校時代から、新聞記者が、数多い夢の一つでした。共通一次試験の一週間前に父親が愛知県から松山に転勤になったため広島大を、新聞記者になるためには政治、経済に強くなければいけないだろうという理由で法学部を選びました。


水泳と乱読の学生時代

 正直言って、学生時代、褒められる学生だったといえばウソになります。もっぱら四年間をクラブ(体育会水泳部)と読書に充ててしまいました。語学など大学時代にやり残したことは多いのですが、乱読の結果、やっぱり新聞記者になろうと意を強くしたのも事実です。それに何と言っても卒業以後の人生の方が長い。大学時代に遊んでしまったと悲観することもないでしょう。
 人生経験をある程度積んだ今になって、究極の人間関係のもつれとも言える裁判や法律を少しは理解できるかもしれないと時折『ジュリスト』を買ってみたりもしますし、教育学や心理学など興味ある分野での勉強も続けています。勉強への姿勢や方法、好奇心さえあれば、何かを始めるのに遅いことはありません。
 さて、話は突然就職活動に移ります。私のころは、バブルが弾ける直前の年で、女子の就職に少し陰りが見え始めていました。五月ごろ重い腰をあげた私は、ごくわずかの会社(新聞社数社とNHK)しか受けませんでした。マスコミ関係は東京や大阪が試験会場で、会場までの旅費は自分持ちですし、セミナー代金まで払わなければならなかったからです。この暑い日に着慣れないスーツを着込むと思っただけで、うんざりしました。そして案の定、私は全て不採用でした。
 皆が内定式にいそいそと出席していたころ、私は来年からどう過ごそうか、そればかり考えていました。初めて所属のない身分になることへの不安に押しつぶされそうでしたが、かといって意に添わない就職もしたくありませんでした。
 十一月に入り、水泳部の先輩で中国新聞の記者をしている人が、記者職の二次募集をしていることを教えてくれました。一回すべった学生が受けても通るまいと覚悟の上で受けましたが、運良く受かりました。二次募集をしたのは、後にも先にもこの年しかないそうです。

道は必ず開ける

 今のセクションである校閲部は、最初に書いたとおり、取材記者に比べるとはっきりいって地味な仕事です。刺激も少ないし、人との出会いもありません。異動当初はくさりもしたし、焦りを覚えたこともありました。それでも与えられた仕事をきっちりこなしていくことで、また道が開けると信じています。現状に甘んじるわけではないですが、今するべきことをとりあえず精一杯やり、それでも夢はあきらめないぞ、と自分を叱咤激励している状況です。まあ、いつもこんな優等生ではいられなくて、愚痴をこぼすことも多いけれども。
 社会に出てみれば転職した、離婚した、失業した、と周りは何かと騒がしい。でもみんな、落ち込むだけ落ち込んでも「人生万事塞翁が馬よね」なんて言いながら、頑張っているようです。特に広大出身者は、堅実でまじめであるように思います。浮ついたところが少ない。女性も、家庭に落ち着いて専業主婦という人はあまり見かけず、独立心旺盛な人が多い。
 偉そうなことは言えないけれど、学生時代は、自分がどう生きるのか、自分なりの人生観を考え始める時期。年が経つに従って、夢や希望は変わるかもしれませんが、自分の生き方さえしっかり持っていれば、挫折しても、くじけることはありません。三十歳そこらじゃ、まだ将来がどうなることやらさっぱり見えなくて、とても不安ではあります。でも、これから先、たとえどんなことが待ち受けていようとも、たぶん笑って乗り越えられるんじゃないか、そんな自信が芽生えてもいます。


プロフィール
(つの・ようこ)
◇一九七〇年愛知県生まれ
◇一九八八年四月広大法学部入学
◇一九九二年三月同卒業
◇一九九二年四月中国新聞編集局入社。国際部、岩国支局、報道部を経て、現在校閲部




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