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広島大学総合博物館の新設を望んで

 沖村雄二(Okimura, Yuiji)
広島大学名誉教授

 ある国立大学で古生物学を専攻され、世界的な活動をされつつあった教授が急逝された。若くして亡くなられた教授は、世界の学会にたいして永久保存の義務をともなう新種の模式標本を十数種指定されているが、保存・管理システムが整備されていなかったために、数年後にはいくつか行方不明の標本のあることがわかった。外国の大学から借用された標本もあったがそれも行方不明である。広島大学でも同じことが起こる危険性はきわめて大きい。大学博物館はこの危険性を払拭し、新しい研究の基礎資料が整備されることになる。
 三十四年近くお世話になった理学部を数か月ぶりに訪れて、田中隆荘元学長の頃から胎導し始めた大学博物館設立の構想が、文部省と広島大学とで検討し始められたという嬉しいニュースを聞いた。
 この構想が生まれたのは、理学部が移転を控え、膨大な量の永久保存の義務のある研究資料・標本はもちろん、研究能率の向上をめざして、保管・管理棟の新設を文部省にお願いしようと、生物学教室と地学教室が中心になって生まれた。当時助教授であった私は、文部省の国際学術局学術情報課長を訪ねて、いろいろと教えられながら苦い思いをしたことがある。教室の教授の方々の都合があったのだろうか。その後本意と異なってこの構想と深く関わることができなくなって、悔しい思いをさられたことを今さらのように思い出している。
 二年余り前、名誉教授の称号授与式の会食の席で、原田学長に大学博物館の新設を実現してくださいと懇願したが、実現できるよう頑張りますと力強いお言葉を頂戴したのが昨日のような気がする嬉しいニュースであった。大学博物館の建設にむけて、二、三の事例を引きながら考えてみたい。
 大学博物館には、地域教育・文化の進展と保存が重視される博物館とは、基本的に大きく異なる組織が背景にあるといえる。大学院生も含めるべきだと思うが、教官のほとんどは、いわばすべて博物館でいう学芸員であり、千人の単位にのぼる学芸員による教育・研究の総括には、予測さえできない世界に誇るべき研究成果が期待できると思うのは私だけだろうか。
 現在の大学の組織で行われる研究成果のほとんどはせいぜい研究室間に止まり、教室間、ましてや学部にまたがった研究は非常に難しい。多岐にわたる研究分野の学際を超えた研究を可能にするのが、大学博物館であろう。
 広大フォーラム二十八期五号には、総合科学部中坪孝之博士による「開かれた学問」の興味深い記事がある。北緯七九度に位置するスバルバール諸島ニーオルスンでの研究を踏まえた北方域の生態系と地球温暖化の問題をとらえたものである。
 この地域は、私の専門の地質学の分野ではスピッツベルゲンとして知る人ぞ知る「スバルバール条約(地質学の研究に関しては、日本を含む四十か国が、統治国のノルウェーと同等の権利をもつ)」の結ばれた北極圏の群島である。現在はノルウェー政府により、いくつかの法律が施行されて世界の自然保護のモデル地ともいわれ、地球環境に関連する多くの研究が複数の国の研究者によって行われており、徹底した自然保護策が実施されている。
 私も二回にわたり、白夜のスピッツベルゲンで、中・古生代境界の古生物の大量絶滅の原因を明らかにする研究に参加した。その時、多くの国の研究者と意見交換し、かなりの標本や試料を持ち帰った(理学部に保存)。
 私の知る限りでは、今、広島大学にはこの地域の研究をされた方が、中坪孝之博士を含めて三人おられる。広島大学総合博物館の資料室にこれらの方々の研究資・試料が集められ、より多くの「学芸員」による総括的研究が行われてこそ、これらの資・試料は生かされるし、世界に誇れる自然環境の変遷の研究に大きく貢献できるのではないだろうか。
 最近、東京大学に教官出資の株式会社がつくられ、独自の研究で研究費を生み出す組織が動き始めた。
 退職前に中国科学院を訪問する機会に恵まれ、数万人の従業員を抱える巨大組織で研究費を生み出すための方策が機能しているのに驚いたことがある。蘭州市にある堆積学研究所は、中国一の油田として成長しつつあるタリム盆地の石油開発により、莫大な利益を生み出しているだけでなく、石油の無機起源論を生み出して世界的な注目を浴びている。
 そうかと思えば、南京地質学古生学研究所には、所長の紹介では三人の芸術家が在籍しているが、これらの方々は化石の入った岩石を材料にした香炉や花瓶など、芸術価値の高い彫刻品として市場に出荷し、利益はすべて研究所に還元されて研究費になっている。その利益は微々たるものであろうが、芸術家の方たちの顔には、生き生きとした活力が満ち満ちていた。
 大学博物館が実現すれば、広島大学の場合、さしずめこの芸術家にあたる職員は、今、博物館に欠けているといわれるエデュケイター(educator)に相当するかもしれない。大学総合博物館が果たさなくてはならないことの一つかもしれない。  
 


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