2000字の世界(23)

イスタンブールの一夜

文・ 矢野 淳子(Yano, Junko)
生物生産学部
食品科学講座助手



 二、三年前、飛行機の乗り継ぎのためイスタンブールに一泊したことがある。トルコは、子どものころからずっと訪ねたいと思っていた場所だった。東と西の文化が出会うところ、イスラムの国…といったありきたりの知識しか持ち合わせていなかったが、なにかとても魅力的な国に思えた。
 と言うのも、中学生になって英語を習い始めのころ、トルコ人の子としばらく文通していたことがある。英語を使うのが目的であれば英語圏の人と文通すればいいものを、めずらしさが先に立って、私は新聞にのっていたリストの中から彼女を選んだ。だが、二人の英語はひどかった、とその時の手紙を今みて思う。お互い習いたての言葉を駆使して、辞書をひきながら書くものだから、便せんには怪しげな言葉が並んでおり、解読するのに一苦労、返事を書くのにはさらに苦労した。
 そんな状態だったし、筆無精の私にとって手紙を書くのは苦痛で、一年くらいで彼女との交流は自然消滅してしまった。けれど、彼女が送ってくれた写真の中で、彼女の後ろに写っていた海の色が、日本海近くで育った私が今まで見たことがないくらいきれいな薄い青い色をしていたのが印象的だった。いつか行ってみたい、と思った。
 その憧れのトルコに着いたものの、到着した頃にはもう日がすでに傾いていたし、翌日は早朝から出発しなくてはならなかった。仕方なく、空港でタクシーを拾ってホテルへ向かった。タクシーの運転手は片言の英語が喋れる人で、何とかこちらの言いたいことも理解してくれた。ホテルへ向かう道すがら、「せっかくトルコに来たのに時間がなくてどこにも行けないのが残念だ」などと話していたら、彼がタクシーで二時間くらいのツアーをしてくれると言う。話し合って決めた値段が安く、このまま連れ去られるのではないか、と不安な気持ちもよぎったがここは彼を信用することにした。そしてホテルに貴重品を置いて薄暗くなったイスタンブールの街に出かけた。

*   *   *

 彼の名前は、レセップと言って、五十歳も半ばくらいに見えたが、四十三歳だという。奥さんと子どもが三人いるらしい。まず、彼が案内してくれたのは十六世紀、大帝スレイマン一世から始まる時代に建てられたというブルーモスクで、どっしりとしたドームと回りに建つ鋭い尖塔のコントラストが目をひいた。
 「お祈りの時間だからちょっと待っていてくれ」と言い、彼は私を外に残して一人礼拝堂の中に入っていった。モスクから聞こえてくるコーランを読み上げる声は、何とも言えない心地良い響きだったが、こんなモスクをいくつも建てたアラブの国家は、かつてどんなに豊かだったことだろうと思うと、悲しい響きにも聞こえた。
 祈りの時間が終わると、白い布で頭をすっぽり被うことを条件に、私も中に入れてくれた。そこは、青いタイル貼りの美しい礼拝堂だった。まだお祈りを続けている人たちの間に座って観察すると、礼拝堂の後ろが女性、前の方が男性が座る場所らしい。導かれるまま、遠慮がちに前の方へ行っていろいろと見せてもらった。
 外へ出た頃にはもう九時近かった。レセップの知り合いのホテルのカフェに行って、トルココーヒーをごちそうになった。ちょうど正面には、さっき入ったブルーモスクが暗闇にライトアップされていて夕刻に見た時よりさらに大きく見えた。今度はゆっくり来たいものだ、と思いながら帰途についた。
 その帰りのタクシーで、レセップが「家がこの近くなんだけどちょっと寄って行かないか」と言う。びっくりし、即座に「今日はもう遅いから」と断ったが、同時に、これはまずいことになったと思った。無事にホテルまで送ってくれるのだろうか、売り飛ばされたらどうしよう、逃げるなら今か、けれど本当に親切心からの言葉であれば、そんなことをするのは失礼だ。
 そこで、彼の家族のことを聞いてみた。家には誰が居て、娘さんは何をしていて、奥さんはどんな人なのか、などと。「いい家族なんだ」と言いながら言葉をつなぎ合わせて説明してくれた。ごく普通の家庭が想像できた。
 そうしているうちに、「このアパートの四階なんだ。少し寄っていってくれ」と言い車を止めてしまった。もうこうなったら仕方がない、なんとかなるだろう、と諦めて彼の家へ行った。だが心配は無駄だったことがすぐにわかった。
 家には奥さんと娘さんが居て、レセップが連れてきた私を見てびっくりしていたが、どこの誰ともわからないのに大歓迎してくれた。午後十一時近いのに夕食を作りもてなしてくれた。レセップは親戚に電話し、日本人のお客が来ているのだけど家に来ないか、と言っているようだ。こうなると、明日の朝には発たなければならないのが残念でならなかった。「またいつかきっと来るから」と約束して別れた。
 おかげで、この旅行は幸せな気分で帰途につくことができた。同時に、トルコ人の皆が皆そうとは言えないだろうが、一般的に外の人を受け入れる度量の深さが好きになった。東西の文化が出会う場所として、常に物や人、文化の行き来があった時代の影響なのだろうか。私にとっては、学ぶべきことの多い、そして温かい旅だった。


ブルーモスク前のホテルのカフェにて
 

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