開かれた学問(72)

 戦国大名領国研究と大河ドラマ「毛利元就」 


文 写真・岸田 裕之

 



はじめに

 『中国新聞』一九九八年二月九日の「中国論壇」に寄せた「『元就』後の歴史・文化振興」と題する小文が、担当の広報委員の眼にとまっていたらしい。私が、一九九七年のNHK大河ドラマ「毛利元就」の時代考証を担当するとともに、多くの関連番組や関連事業の企画・実施に関与したことが、「開かれた学問」に相当すると考えられたのであろうか。"社会に対して"開かれたという意味において、この異業種間交流は、確かに絶好の事例かもしれない。
 しかし、問題は研究成果をどう反映させたかである。枚数に限りがあるので十分ではないが、まず私が専門とする大名領国研究の方法を紹介し、次にドラマや関連諸企画との関係の一端について述べることにしたい。  


一、中国地域の戦国大名領国研究

 私が学び始めた頃、本学では河合正治教授の毛利氏、松岡久人教授の大内氏などの研究が学界で評価が高かった。ただ、こうした個別大名研究を踏まえ、もっと構造的に地域性を問い、時代性を深める必要があるように思われた。そうして私の大名別、あるいは政治・経済・意識と分けた構造別の研究が進められた。
 「中国」という、現在の中国地方をおおう地域呼称が生まれたのは、いまから約六五〇年前の南北朝時代の中頃のことである。それは、地理的には九州との中間という意味であるが、京都の足利政権と、南朝を奉じてそれに対抗する九州の領主、山陰の山名氏や周防・長門の大内氏との政治上の"中間"として成立した。したがって、足利政権からみると、「中国」の東部は味方地であるけれども、西部は敵方地、中部はその境目であった。室町・戦国時代には、足利政権側の讃岐・備中の細川氏、出雲の尼子氏らが、この東広島市の鏡山城を拠点に安芸国支配を進めていた大内氏と対峙していた。当然のことであるが、京都の政権の列島支配は全く不均質であった。
 境目の安芸の領主(国人とも国衆とも言う)は両方に相分かれて戦い、多くの敗者を生みながらも、次第に協調し、「書違」(お互いに誓約書を交換する)を通して地域秩序を強化していく。その国衆連合の盟主の地位に就いたのが、毛利元就であった。その後元就は、一五五七年に西の大内氏、六六年に東の尼子氏を討滅して中国地域を制覇し、それによって国衆の統合を果たした。このことは、元就が地域内の鉄・銅・銀などの資源や、大内氏や尼子氏が掌握していた貿易・流通のシステムを独占したことを意味する。戦国時代の戦争は、当時東アジア規模で広域化しつつあった列島の国際性豊かな流通権益の争奪戦でもあった。
 また、戦国大名は自ら樹立した領国を「国家」と称した。毛利氏「国家」の成立は、大内氏と断交した一五五四年のことである。それは、独自の支配機構を有し、法と統治においては自立した戦国大名領国を指す。戦国大名「国家」間の戦争が列島に繰り返される中、織田信長は「天下布武」の印判を掲げて諸「国家」の統合を企てたがついえ、それを果たしたのは「天下人」の地位に就いた豊臣秀吉であった。秀吉の諸政策の推進によって、列島は地域主権の戦国時代から中央集権の近世へと進む。

 ごく簡単に地域性と時代性を概観したが、課題と方法を深めるためには何よりも良質の新出文書が不可欠であった。
 戦前発行の『毛利家文書』(大日本古文書)などを主としていた段階から、一九六〇年代後半の山口県文書館編『萩藩閥閲録』五冊、一九七〇年代後半の『広島県史古代中世資料編』五冊の刊行によって史料の利用ははるかに便利になり、研究条件は整備された。私が本学に赴任したのは、そういう状況の一九八〇年四月のことであった。
 こういう地域史料の編纂事業の成果を踏まえ、将来に向けて何を課題とし、どう方法的に取り組むべきか思案した。『閥閲録』や『広島県史』所収の「譜録」などは、萩(長州)藩が十八世紀に戦国時代以来の系譜を引く家臣の所蔵史料を藩府に録上させ、それを筆写した文書群であった。したがって、それが長州藩歴史学者永田政純の厳密な考証を経た編纂物であるとはいえ、写本であること、そして何よりもそれらが儒教思想の普及した江戸時代中頃の縦の強固な主従関係の意識を基準にして各家臣の所蔵史料を選別したものであることに大きな難点があった。
 これらの問題点を自覚し、諸機関や旧長州藩主毛利家ならびにその家臣の系譜を引く個人、寺社等所蔵の原文書調査を進めることに決め、同様の研究関心をもっていた助手の秋山伸隆氏(現在広島女子大学教授)とともに、大学院生諸氏の協力を得て、私の蒐集調査が始まったのである。以来二十年になるが、幸い諸機関・個人各位の格別の協力をいただいて撮影したフィルム、焼付したファイルは膨大な数量にのぼる。
 その結果は、写本の誤読を正し、原文書の紙質・筆跡・墨色・封式・署名・花押等々の新たな多くの情報によって歴史像がより豊かに提示できたことはもちろんであるが、注目すべきは、『閥閲録』など、その編纂基準からはずれ、それらに収録されなかった原文書が多数発見されたことである。一つの家について、『閥閲録』に収録された数とほぼ同数のものもあった。それらの新出文書の内容は、その選別の基準からして、毛利氏との関係に限らず、それぞれの家が中世社会において形成していたより広い歴史世界を多様かつ豊かに描く格好の素材たりうるものであった。たとえば、境目の国衆連合の様相、都市・交通・流通・貿易など経済構造関係の横の広がりの究明に資する史料が多かったのである。
 中国地域の戦国時代史料は、毛利氏の存続、長州藩や近代毛利家の編纂事業等の好条件もあって、全国的にみて飛び抜けて最大の質量を誇る。そして、大名・国衆の城館跡も数多く、その遺構の状態は良好であり、出土遺物も内容的に貴重なものが多い。またその調査と研究の過程で多くの人材も育った。このように中国地域は大名領国研究の史資料の宝庫であり、そして学界の状況に鑑みると、本講座はその研究拠点といえる。

図版1:毛利元就袖判小倉元悦奉書(折紙)石田彦兵衛尉を杵築相物親方職に任じたもの



二、大河ドラマ「毛利元就」

 一九九六年二月、九七年の大河ドラマに「毛利元就」が決まったことが公表された。
 しばらくして、東京から制作統轄の木田幸紀氏が来広され、時代考証の要請があった。私としては、重要な研究計画もあったし、それを中断し、二年間も関わることに迷いに迷った。しかし、思案を重ねた末、地域の視座から地域社会の固有の歴史像を描き出す研究姿勢を貫き、また国・県・市・町の歴史文化の振興や文化財保護に関するさまざまな公職を兼業している私としては、これを、視聴者の方々が、地域の歴史や身近な史跡・文化財等をあらためて見直し、それを通して地域社会の営み、その力を問い直し、かつ文化事業の推進や文化財保護等を進める機会としていただければ、学問を社会に開くとともに、広島大学が掲げる地域貢献にもあたると決断し、広島放送局に事業・制作の両部長を訪ねた。
 ドラマの脚本づくりには、引き受ける以上は責任感と情熱をもって学術的に関わりたい。しかし、さまざまな制約によって脚色もあろうし、譲らなければならない場合もあると思う。そこで、短い時間でよいからドラマの最後に中国地域の戦国時代の有様を学術的に発信する時間を設け、その構成を私に任せて欲しい。その条件でお引き受けしたいので、東京に取り次いで欲しい。
 返事を頂戴したのは四月下旬であった。九十秒のミニ番組(「元就紀行」と題した)はこうして成立し、制作も広島放送局制作、NHKちゅうごくソフトプランで行われることになった。自分で仕事量を増やした感もあるが、五十回分の映像の構成、六百字以内の語りの作成など、ドラマの進行にも配慮しながら苦心した(のちビデオ化された)。
 ところで、ドラマの脚本は、担当のディレクターを決め、あらすじ作りに始まり、準備稿→改訂稿→改訂2稿→台本と、十分なチェックを加えながら書き直しを繰り返したが、それぞれの冊子の分量は別にして、私が東京と遣り取りしたファックス、郵便物は、記帳したノート五冊と合わせ、その厚さはほぼ一メートルに達する。
 想像を絶する作業量であったが、ドラマの視聴率もきわめて高く、「元就紀行」は専門家の間にも評価が高かった。
 また、広島放送局が中心となって推進した事業も多方面にわたった。取り組むにあたって、事業の哲学、基本的な視点を定めて局内の意識の一致をはかりたいということでレポートの執筆要請があった。私は、『境目の盟主・毛利元就とその時代―人・家・地域社会、その歴史と文化―』と題する六十枚のレポートを提出した。NHK側のそういう姿勢が文化振興のための諸事業を推進した基盤であった。
 広域かつ地域密着の多様な事業が実施された。とくに評価をいただいたものに『毛利元就展』(東京・広島・名古屋・萩で開催)、『歴史リレーフォーラム―元就歴史紀行―』(中国地方の十市・町で開催)、『毛利元就歴史紀行展』(〈パネル展〉広島城二の丸と中国地方の三十市・町で巡回開催)などがあるが、いずれも記録的な入場者数に達し、その図録や講演記録集は、同じく私が監修した『中国の盟主・毛利元就』(NHK出版)とともに、後に遺るものとなった。
 永井路子氏の原作『山霧』は、元就の妻妙玖が死没する一五四五年で終わっていた。ドラマは元就が死没する一五七一年まで続くので、元就の後半生のいわば"国盗"物語の原作を必要とした。女性の視点という確たる"志"をそなえた作者固有のスタイルで新たに著わされた『元就、そして女たち』の内容には、新出文書で解明された経済構造に関する研究成果をも汲み取っていただいた。
 人間が生きるということはどういうことか。どういう地域性・時代性の呪縛の中でどういう課題を背負い、どういう方法でそれを実現していったか。国衆との連合からその統合者となった元就を単なる家庭ドラマの主人公としてではなく、「国家」づくりの主人公として描き出すための基本的な柱、その具体的な支配構造上の留意点等々を定めたが、その重要な一つに経済構造の問題があった。
 秀吉が長崎を直轄領とし、全ての外国船を長崎に廻航するという貿易の独占政策を実施する以前の中世は、海に国境がない時代であった。私は、そういう東アジアからの物流に直結する国際性豊かな中国地域の流通とそれに基づく文化性を表現したかった。それを最近の研究成果である堀立直正という内海商人、のちの元就直轄領赤間関(現在の下関市)代官を登場させることで語らせようとした。さまざまな制約もあって登場人物が限られた中、堀立直正(俳優は原田芳雄氏)はそれを一人で見事に演じきったのである。

図版2.朝鮮国通信符(右符)

図版3:日本国王之印

図版4:「日本国王之印」の印箱
いずれも朝鮮や明と貿易していた大内氏の遺品である



図版5:毛利元就自筆書状(いわゆる三子教訓状<前半部分>)



おわりに

 私が日頃の自らの意識・方法をも含めて研究成果を社会に対してどう開こうと努めたか、おおよそおわかりいただけたかと思う。
 大河ドラマで初めて中国地域が取り上げられたことのもつ意義は大きい。中国五県と愛媛県の広域連携で諸事業を支援した大河ドラマ「毛利元就」推進協議会(会長藤田雄山広島県知事)も新しい試みであった。観光事業も広域展開でその経済波及効果も多大であった。いま私たちは中央集権のあり方に慣らされているが、これを、来る二十一世紀における地方分権の推進のためにも、さまざまな歴史文化事業を定着させ、地域社会の営みの尊厳を共有できる歴史観・文化観を成熟させていく絶好の機会にしたいものである。
 外部からの依頼による場合が通常ではあるが、大学機関としてもその知的財産と人材を積極的に社会資源として活用するシステムとルールを再検討することが重要である。私など、個人としては、自らの授業を開放したいと考えている。"開く"ためには、具体的にさまざまな制度的垣根を除いていくことである。
 最後になったが、ドラマや関連番組・関連事業の全てが私に集中する中、多くの方々に支えられ、二年間を乗りきった。広島大学の一員としては、とくに原田康夫学長のたびたびの激励は有り難かった。ともに心からお礼を申し上げたい。
 なお、図版1は島根県大社町の坪内良氏、2〜5は防府市の毛利博物館、6は山口県豊浦町の杜屋神社の各所蔵になる。

図版6:毛利元就が堀立壱岐守直正に宛てた書状のウハ書






 プロフィール

(きしだ・ひろし)
☆一九四二年 岡山県生まれ
☆一九七〇年 広島大学大学院博士課程単位修得 文学博士
☆一九八〇年 広島大学文学部(国史学)助教授、九〇年から教授

奈良市の秋篠寺にて

 

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