2000字の世界(26)
ノーベル医学・生理学賞とニトログリセリン
文・ 土肥 敏博(Dohi, Toshihiro)
歯学部歯科薬理学講座教授
一九九八年度のノーベル医学・生理学賞は、いずれも米国の薬理学者でロバート・ファーチゴット名誉教授(八十二歳)、ルイス・イグナロ教授(五十七歳)、フェリッド・ムラド教授(六十二歳)の三氏に授与された。受賞理由は「循環器系における信号伝達分子としての一酸化窒素(NO)の発見」である。
筆者がバージニア大学医学部内科・臨床薬理ムラド教授の下へ留学したのは一九七七年秋であった。当時、同大学にはT. RallやA. Gilman(後にG蛋白の発見でノーベル賞)らがいて、cyclic nucleotide研究のメッカと言われていた。
その頃、ムラド研ではGTPの分解を防ぐ目的で入れたアジ化ナトリウムがguanylate cyclase(GC)を活性化することを発見し、またニトログリセリン他のニトロソ化合物がNOガスを遊離してGC活性化/cGMPを介して血管を拡張する機序を明らかにしていた(木村、勝木ら)。
しかしアセチルコリン(ACh)は、組織・細胞レベルではcGMPの産生を高めるがGCを直接活性化しないので、AChによって産生される未知の生理的因子を介してcGMPの生成を高めて血管を拡張すると考え、この機構の解明がラボの命題であり、ラジカルやredoxによるGCの活性調節に焦点をあてていた。この間、彼はNO自身があるいはその因子であるかもしれないと考えていたようであるが、そんな言わば毒ガスが生理的なものとは、筆者自身もそうであったが、一般にすんなりと受け入れがたいものであった。
この問題の解明のきっかけとなったのはファーチゴットが行った実験(一九八〇)であった。すなわち、AChは正常な血管は弛緩させるが血管内皮細胞を傷めた血管標本では作用はなく、無傷の内皮細胞を筋組織で"サンドイッチ"にすると再び弛緩作用を現すことから、内皮細胞から何らかの弛緩因子(EDRFと命名)を遊離させて平滑筋を弛緩させる、そしてこの因子は非常に短命なものという、きわめて示唆に富むものであった。
かつて、Loewi(一九二一)が行った実験‐心臓の迷走神経を電気刺激するとその心臓は直ちに停止し、環流液が作用するようにした別の心臓がやや遅れて停止するという、シナプス間の化学的伝達物質、後のAChの存在を証明した見事な実験‐をそのまま彷彿させるものである。やがて、EDRFがNOそのものであるということが三受賞者や他の研究者によって明かされていくのである。
ムラド先生はバージニア大学後スタンフォード大学、アボット社、筆者が一九九二年シカゴで訪ねたときはベンチャービジネスを始めている時であった。この後にラスカー賞(一九九六)を受賞、そしてテキサス大(ヒューストン校)へ復帰(一九九七)するという、日本の社会では難しいであろう数奇な道どりを辿っている。
また、このたびの受賞の研究において、ムラド研の日本人をはじめもちろん米国他多くの国のポスドクの果たした役割は大きい。日本においては博士取得者数を増やすことに力を入れているが、ポスドクが活躍できる場の整備がまだまだ伴っていない。人的活用の場、研究者は学問に専念できる環境には雲泥の差があることを痛感する。
筆者自身学位取得と同時にムラド研で研究に携わることができ、このノーベル賞にまで発展する研究の道筋を辿りみることができることはまさに幸運である。そこには、偶然の事象‐すなわち、生命が語りかけてくる"ささやき”に耳を傾けることから発した斬新なアイデアが随所に大きな発展の契機をなしていることを思い知る。
「ダイナマイト火薬工場の労働者は、就労中に狭心症の発作を起こす確率がきわめて低い」というエピソードからニトログリセリンが狭心症治療に応用されたのは十九世紀であった。アルフレッド ノーベル(一八三三〜九六)は、彼自身狭心症を患い、手紙の中で、"It sounds like the Fate of irony that I have been prescribed nitroglycerine-internally"と書いている。
百年を経て、自身が設置した賞の対象になるというのもまた因縁の出会いだろうか。ノーベル賞の条件、すなわち「人類に対する貢献」という点からみると百年以上も前の「Trinitrin」の開発まで遡ることになろう。
ただ、生命の神秘はそんな人間の思惑とは別に、横目でじっと興味深くサイエンスを眺めていたに違いない。そして一つのブレイクスルーはまた奥深き神秘を覗き見させてくれるだろう。NOが循環器系のみならず、神経系、免疫系などにおいて、むしろこれから飛躍的な発展が予測される。
また、NOに関連する新薬(今cGMPホスホジエステラーゼ五型阻害薬バイアグラが話題になっているが)の開発が期待される。最後にこれまでムラド研に在籍した日本人ポスドクは以下の通りである。
木村(久留米大)、勝木(日本ベーリンガーインゲルハイム)、市原(川崎病院)、土肥、(広島大)、和田(明)(宮崎医大)、上崎(大阪大)、久野(神戸大)、中根(米国アボット社)、佐伯(愛媛大)、平田(九州大)、石井邦明(山形大)、石井邦雄(北里大)、堀尾(大阪大)、和田(孝)(ハーバード大)。
メダルを手にするムラド教授(ノーベル賞授賞式に招待された勝木氏提供)
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