海外で活躍する学生

  新米教師奮闘記 IN ロシア  

文・ 中 西 利 恵(Nakanishi,Rie)

 バイカル湖の東のほとり、ウラン・ウデ市に日本語教師として働くようになってから早六か月。裸木に囲まれた白一色の街並みや、毛皮で着ぶくれた人々の群にもすっかり慣れた。細かい雪が踏み固められ、ツルツルとよく滑る道を、転ばないように一歩一歩踏みしめて歩く。
 ウラン・ウデも温暖化の例に漏れず、毎年少しずつ暖かくなってきている。とは言え、一月末の極寒時にはマイナス四〇度近い日が一週間続いた。その頃の寒さに比べれば、空気が随分柔らかくなった。東シベリア、ザバイカル地方の春も近い。

モンゴルに隣接した地  

 ウラン・ウデ市はロシア連邦内、ブリヤート共和国の首都である。ブリヤートとは、中国側の内モンゴルと対称をなす、旧ソ連邦に取り込まれたモンゴル民族の呼び名だ。母語のブリヤート語はモンゴル語の方言のようなもので、ハングル語や日本語と共に、アルタイ語族に属すると言われている。
 シベリアの大地に私たちと同じモンゴロイドが住んでいる、と言うと意外そうな顔をする人もいるが、約六五〇`ほど南に行けば、そこにはモンゴルの草原が広がっているのだ。ロシア人が全人口の七割を占め、混血もないとは言えない。けれども彼らは間違いなく東洋人で、ブリヤート共和国は、チベット仏教の流れをくむ、旧ソ連領内で唯一の仏教圏でもある。

遅れている民主化  

 しかし、このような、歴史学的にも言語学的にも、さらに文化人類学的にも興味深いこの土地に、日本語教師として赴くことになったのが、全く偶然の産物であるから面白い。実を言うと、以上に述べたことを私が知ったのは、ここで暮らすようになった昨年九月からなのだ。
 日本人がいなくて、ロシア語が話せるのならと、がむしゃらに飛びついたブリヤート行きだが、学生たちとたわむれ、街でなじみの顔が増えてくるにつれ、愛着と共に、自然とその土地に対する興味が湧いてくるから不思議である。今では、ほんの一週間さえ離れがたい。自分でも呆れるほどの惚れようである。
 ところが、何がそこまで魅力的なのかと問われると、途端に返答に困ってしまう。私の周りには、あまり優秀とも言えない約五十人の大学生と、ごく少数の心を許せる友人がいるだけだ。毎日は、決して楽しいことの連続ではない。むしろその反対で、不愉快なこと、やっかいなこと、理不尽なこととの闘いである。
 ここは、連邦内でも民主化がひときわ遅れていると言われており、ソ連崩壊後八年が経とうというのに、いまだに街のシステムはソ連時代のままである。日本なら電話一本で済んでしまうような些細な事が、あちこちたらい回しにされたり、何日もかかってしまうことが往々にしてある。幸い、ある程度ロシアという国を知っており、片言とはいえロシア語を話すことができたおかげで、ここまで何とかやってこられたが、もしもそうでなかったら、どんなに大変だったことだろう。

教材も人材も少ない  

 日本語教育という未経験の分野も、大いに私の頭を悩ませた。いや、これは過去形でなく、今も継続中の問題なのだが。ブリヤート大学が日本語教育を始めたのが三年前。とにかく、教材がない、人がいない、プログラムさえなっていないというありさまだ。
 専門的な知識がないとは言え、中途半端に教えるわけにもいかない。数少ない本を使って日本語の勉強をすることが、実は何より大変なのである。しかし、そんな過程を経て、納得のいく授業ができたとき、自分の説明に学生の目がキラリと光ったとき、その時に感じる喜びは今までに経験したことのないものだ。
 学生からの反応が欲しくて、少しでも日本語を好きになって欲しくて、今日も授業の準備に励む。明るいだけが取り柄の、頼りない新米教師。教室では学生と間違えられ、学生からはロシア語の誤りを指摘されつつ、毎日、まさしく手探り状態で授業を行っている。教材も人材も不十分。こうした劣悪な状況下での日本語教育が、当地で今後発展していくための礎を、どんな小さなものでもいい、しっかりと作ってから帰国することが、今の私の目標である。 

平成11年1月29日付「毎日新聞」
 




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