開かれた学問(74)

 民族紛争論 

旧ソ連諸国を中心に
文 写真・井 上 研 二

 ユーゴスラビア連邦セルビア共和国コソボ自治州紛争で北大西洋条約機構(NATO)軍によるユーゴに対する空爆を開始してからすでに二か月経過、民族紛争の悲惨さと問題解決の難しさが浮き彫りとなっている。しかし、世界の民族紛争はこの地域にとどまらず、至る所で絶えず起きているのである。そこでここでは、私の「守備範囲」とする旧ソ連諸国の主な民族紛争を紹介することにする。 
 
はじめに

 プロフィールにあるように、私は戦前、日本の領土だった旧満州で生まれた。戦後、両親が私を無事日本に連れ帰ってくれたからよかったものの、まかり間違えば、帰国の途中栄養失調等で死んでいたか、あるいは「中国残留孤児」という悲惨な境遇に遭っていたかもしれない。現に、そういう不幸な目にあった人たちが数多くいることは周知のとおりである。これは戦争がもたらした悲劇であり、民族紛争が引き起こした悲劇とは多少異なるが、最近のコソボの難民たちの悲惨さを見るたびに幼児体験と重なる部分が多い気がしてならない。
 しかし、私が民族問題に関心を持ち始めたのはそんなに昔のことではなく、それ以前は全般的な現代ロシア論を、またソ連時代にあっては反体制知識人の問題を主たる研究課題としていた。もっとさかのぼって学部、大学院時代は十九世紀ロシア文学をかじっていたから、研究対象が次々と移り変わってきたことになる。
 本来、この「開かれた学問」という連載読み物は、門外漢には専門的過ぎて分かりにくい問題を、誰にでも分かりやすく解説するというねらいから企画されたものだったはずである。したがって、私の現在の研究テーマはテレビや新聞で誰もがそれなりに見聞きしてきたであろう問題を扱っているので、それ以上「開かれる」必要もないのではないかと原稿依頼を断わったのだが、この三月末まで他人に原稿を依頼する立場の広報委員長を務めていた手前、執筆を断われない羽目となってしまったというわけである。
 冷戦時代が終わった今も、世界各地でさまざまな民族紛争が起きている。最近世界で最も注目を集めているのがユーゴスラヴィア・セルビア共和国コソボ自治州をめぐるセルビア人とアルバニア系コソボ住民との紛争であるが、ここではこの問題を論じることは割愛することとし、旧ソ連諸国の民族紛争のいくつかを簡単に解説することにする。


タジキスタン紛争

 民族問題は、先にこれ以上「開かれる」必要がないとは言ったものの、コソボ紛争をはじめ民族紛争が世界各地で絶え間なく起き、その多くは解決に至っていないことからも、実は極めて難しい問題である。世界一多民族国家だった旧ソ連も当然のことながら、民族紛争の多発地域である。
 国連タジキスタン監視団(UNMOT)で政務官として活動中だった秋野豊・元筑波大学助教授(当時四十八)がタジキスタンで射殺されるというショッキングな事件が起きたのが昨年七月。犯人はタジキスタン・イスラム反政府勢力の元ゲリラ兵士たちであった。マスコミでも大きく報道されたので記憶している方も多いと思う。
 タジキスタンはソ連が崩壊し独立後も、ロシア国境警備隊が支援する共産党系の政府軍とアフガニスタン・ゲリラが支援するイスラム系の反政府勢力との内戦が長い間続いた。そして九六年十二月にようやく、停戦協定と国民和解委員会創設に関する合意が政府とタジク反対派連合(UTO)の間で交され、九七年六月には本格的な和平協定が結ばれた。その後現在に至るまで基本的に内戦終息の方向に進んではいるが、いつ再燃するやも知れない。そうした状況下での和平協定遵守を監視する目的で故秋野氏も国連の政務官として派遣されていたわけである。


チェチェン戦争

 周知のとおり、チェチェン人とロシア人の対立から起きた紛争である。ソ連が一九九一年十二月に解体し、連邦を構成していた十五の連邦共和国がそれぞれ独立国家となったが、新生ロシア連邦内のチェチェン共和国でも独立を目指す強硬派のドゥダーエフ大統領派と穏健派の反ドゥダーエフ派の内紛が起きていた。そうした情勢下にあってロシアのエリツィン政権は当然チェチェンの独立を阻止し、反ドゥダーエフ派のかいらい政権を樹立させようとして、とうとう一九九四年十二月、チェチェンに軍事介入を行った。しかし、このチェチェン戦争は予想外に長引き、停戦までに二年もかかっている。この間、チェチェン戦争は双方の戦闘員はもちろん、老人や婦女子を含むチェチェン民間人にも多数の犠牲者を出し、共和国内の建物、石油パイプライン等に甚大な物的被害を与えた。
 チェチェンでは、一九九七年一月に大統領選挙で穏健独立派のマスハードフ現大統領が選出され、同年十一月に国名を「チェチェン・イスラム共和国」に変更すると独立宣言し、ロシアはこれを黙認する形をとっているが、正式にその独立を認めたわけではない。その後、何者かによるマスハードフ大統領暗殺未遂事件が昨年七月と今年三月の二回にわたって起きており、再びチェチェン情勢は一部に不穏な動きが見られる。


ナゴルノ・カラバフ紛争

 ナゴルノ・カラバフというのは旧ソ連アゼルバイジャン共和国にある自治州の名称で、ここの住民の約四分の三が何とアルメニア人なのである。つまりちょうどセルビア人統治下のユーゴスラヴィア・コソボ自治州(アルバニア系住民が大多数を占める)を思い浮かべれば分かりやすいと思う。ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン共和国内に「飛び地」のように存在する自治州である。
 ゴルバチョフ政権下のソ連時代の一九八八年二月にナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア系住民が従来の差別待遇を理由にアルメニア共和国に帰属を要求してデモを始めたのが発端で、その後アルメニア人とアゼルバイジャン人が各地で衝突、大規模な民族紛争 に発展した。
 アルメニア人はアルメニア教会のキリスト教徒、アゼルバイジャン人はシーア派のイスラム教徒で、両民族の抗争は歴史的な宗教上の対立や憎しみに根ざしたものであるが、八八年の民族衝突に至るソ連時代末期のナゴルノ・カラバフの状況は、アゼルバイジャン政府によってアルメニア語学校が次々と閉鎖され、アゼルバイジャン語の教育を強制されたり、アルメニアとの文化交流が制限されるなど、アルメニア系住民にとっては不満が募っていて、ゴルバチョフのグラースノスチ(情報公開)政策によって一気にナショナリズムを爆発させたことによるものだった。
 この紛争によって多数の死傷者が出たことは言うまでもない。九一年のソ連解体を経て、アルメニア、アゼルバイジャン両共和国が独立国家となってからも戦闘が繰り返され、アルメニア側がナゴルノ・カラバフ自治州内の拠点を押さえた形で、九四年以降、表面上沈静化しているが、その根本的な問題解決が達成されたわけではない。


グルジア内の民族紛争

 グルジアでは南オセチア自治州とアブハジア自治共和国の二つの地域で民族問題を抱えている。
 このうちまず南オセチア自治州の状況から説明すると、住民の七割がオセット人だという事情もあって同自治州は一九九〇年九月にグルジア共和国からの独立を宣言した。オセット人はカフカス(コーカサス)山脈を挟んで北オセチア(ロシア連邦内、六十数万人) と南オセチア(グルジア共和国内、約十万人)に分かれて「二つの国」に住んでいる。これはスターリン時代の分割統治政策によるものである。北オセチアの方も同年十二月に主権宣言をだして、二つに分割されたオセット人が一つにまとまろうという動きを見せた。これに対し、グルジア民族主義者のガムサフルディア政権が直ちに南オセチアに非常事態宣言を発布、武力で抑え込んだ。グルジアが独立国となった今も南オセチアの独立問題は未解決のままである。
 次に、アフハジア自治共和国はグルジア北西部の黒海沿岸に位置する国であるが、グルジアに吸収されて何と一千年以上にもなる。アブハジア人は言語的にはグルジア語と近い言語を話すが、十五世紀にスンニ派のイスラム教を受容してからは、キリスト教徒のグルジア人と反目し、ロシアへの帰属替えを望んでいる。このアブハジアの分離主義者も先の南オセチアに続いて独立宣言し、これを武力で鎮圧しようとするグルジア軍との間で民族間衝突が繰り返された。その後、グルジアでは独裁色を強めていったガムサフルディア大統領に反対する派と大統領派との内戦状態がしばらく続くが、シェワルナゼ(元ソ連外相)政権になってからも紛争は収拾せず、シェワルナゼはモスクワに足繁く通い、エリツィン大統領と打開策をめぐって交渉を重ねた結果、アブハジア紛争はひとまず沈静化している。


その他の民族紛争

 以上の民族紛争以外にも、旧ソ連時代に数多くの民族紛争があったが紙幅の関係で解説を省略する。ソ連解体後も、これまで連邦を構成していた十五の共和国がそれぞれ独立国家となった結果、ロシア連邦以外の十四の国々に取り残されたロシア人は今や少数民族の立場となって、それぞれの国において支配民族との間で摩擦や対立関係を生んでいる。特にバルト三国やウクライナあたりが顕著である。一例を挙げると、バルトではそれぞれの国の民族語の試験に合格しないロシア人には市民権が与えられないため、いままで威張っていたロシア人が肩身の狭い思いで生活している状況が生じているほか、ウクライナではロシア人住民が七十数%を占めるクリミア半島のロシアへの帰属問題がいまだに解決していないことなど、いつ再び紛争が勃発してもおかしくない火だねが無数に存在するのである。

 プロフィール

(いのうえ・けんじ)
☆一九四〇年 中国東北部(旧満州)
 チチハル生まれ
☆早稲田大学大学院文学研究科露文専攻博士課程修了
☆時事通信記者、海上保安大学校教授などを経て、一九九二年から本学勤務
☆総合科学部教授
 専門はロシア語、現代ロシア論
 現在、「民族紛争論」を主要テーマに研究を行っている
☆第三十期本学広報委員会委員長

ウズベキスタンとアフガニスタンの国境付近で。国境を警備するウズベク人兵士たちと。筆者は右から3人目(1994年5月撮影)



 

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