霞キャンパス新病棟建設スタート 

文・ 梶 山 梧 朗(Kajiyama, Goro)
 医学部附属病院長



附属病院の変遷

 原爆による被害を僅か一日というタッチの差で免れた広島大学医学部とその附属病院(当時は医学専門学校であったそうです)は、その後、広島県北部、東部へと点々と引越しを続けているうちに度重なる火災に遭遇し、やっとの思いで現在の霞キャンパスに落ち着いたのが昭和三十二年のことでありました。
 その当時の附属病院をはじめ医学部研究棟や教室は、戦前使われていた軍事用倉庫であり、二階建てのレンガ建築は赤い壁の同じ形をした建物で、東西に十一棟平行して並んでおりました。私もその移転当時の入学生ですが、戦後十年余りの当時としては、それなりに立派な附属病院であり、研究棟であり、私たちは先輩たちと共に胸を張って活動しておりました。
その後、昭和三十六年にアメリカからの援助によるライシャワー病棟(現西病棟)が完成しました。白亜の四階建が目にまぶしく、これぞ我が大学附属病院と感激し、それまで陰でささやかれてきたメディカル・コテッジが、メディカル・カレッジに変身したと満足感に浸ったものでした。現在では、基礎・臨床研究棟、東病棟、外来棟、中診棟、蜂の巣講義室、総合薬学科、保健学科、原爆放射能医学研究所、歯学部、図書館、体育館、動物センター、RIセンターなどの建物が所狭しと建ち並び、最近、広仁会館が仲間に加わりました。

二十一世紀の医療を目指して〜新病棟の理念〜

 今回建設が始まった新病棟は、霞キャンパスで医学活動が始まった赤レンガの建物の最後の一棟に接して建てられることになりました。この赤レンガの建物は、医学資料館として戦後の広島大学医学部の歴史を見守ってきた証人であり、これを失うには耐え難く、場所を移して保存することになりました。
さて、新しい病棟は地上十階、地下一階、七百床のベッドを収容し、屋上にはヘリポートを準備した、明るく近代的な建物です。両翼の長さ一一○メートル、南面からは黄金山の桜の並木が、また秋には紅葉が所狭しと競い合っている光景を眺めることができます。
 私たちは今、二十一世紀を迎えようとしています。日本人は、いや世界の人々はみな大転換の中に巻き込まれようとしています。医療の世界も例外とはいえません。こうしたことから、新しい病棟では新しい医療環境を目指して、診療、教育、研究を見直しつつあります。そのうち診療面では全人医療を旗印にかかげ、患者さんを中心に、患者さんのためになる医療を施すために、先ず病棟上階部分は患者さんにとって分かりやすい臓器別に病室を並べ、下方階は患者さんを中心において医療スタッフがこれを囲む形で診療を行うチーム医療中心の配列にしています。いろいろなチーム医療が用意されていますが、その一例にリエゾン病棟と呼ばれるものについて説明いたしましょう。
 これは、例えば癌の患者に対して今までは、外科、内科、放射線科などの医師が体の中の癌そのものだけにターゲットを絞って治療してきました。しかし、リエゾン病棟では、これらの医師に加わって精神科医が治療に当たり、患者にとって癌という病巣から来る苦しみ以外にもっと幅広い心身的、全体的複合的治療を施すというねらいを持っております。
教育に関しましては、広島大学医学部では医学教育のみでなく、薬学生のための臨床薬学が行われることになっております。また、保健学科では看護学、理学療法学、作業療法学を専攻する学生がおり、これらの教育が円滑に実施されてゆかなければなりません。また、本学以外からも、数校からの実習生が一団となってやってくる予定です。そのため、新しい病棟では、カンファレンスルームや講義室をできるだけ多くとることにしました。
 研究面でも病棟は大切な役割を果たしております。看護学大学院生の病態調査、諸々の臨床アンケート調査、新しいガイドライン下での臨床治験など、新病棟はそれらの大切な場となります。
日当たりのよい個室、大きくて明るい雰囲気のデイルーム、巨大なスタッフステーションは新病棟の自慢です。
 つい先日、平成十一年四月十日に、原田学長を中心に外からの多数のお客様を招いて安全祈願祭と起工式を開催しました。約三年後の完成が待遠しい今日このごろです。

広島大学医学部附属病院病棟概要
患者中心の高度医療と教育研究の発展を目指して
病棟計画の考え方






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