2000字の世界(28)
「たのしい」ということ
文・ 石 川 順 一(Ishikawa, Junichi)
医学部医学科4年
中学生や高校生の頃、化学の周期表を覚えるのにいちいち紙に書いて頭から覚えていったり、どこかの「これで覚える○○」みたいな本を買ってきて「水兵リーベ僕の船・・・」などと憶えていた人は多いことだろう。確かにそれでもいいだろうけれども、どうせ憶えるのなら「エッチな彼がリッチなベッドに・・・」という方が面白いし、自分で考えて「リベブックの船はな・・・」という方がよりいっそう頭にはいるだろう。現に僕は前述の憶え方以外にもいろんな憶え方を考えてみていた。こんな覚え方は不真面目だとかわざわざ言ってくださる親切な方もおられるだろう。確かに時間の無駄だし、そんな時間があるのなら英単語の一つでも憶えた方が浪人なんてしなくてすんだかも知れない。
今大学生をやっていて、多くの誘いがある。それらに対して、バイト、勉強、クラブ活動、家事などを理由に断ってしまうのは簡単だ。断ったことで多少の後悔をした後に、自分の中で「きちんとした理由があったのだから。」と納得してしまうことが多かった。またはその誘いのいくつかを受けた結果、へとへとに疲れ切ってしまったり、他の仕事ができなかったりして後悔することもあった。しかし最近多少考えが変わってきた。いろいろな仕事をする上で高校生の時の勉強のように愉しめばいい、と思い始めたのだ
「たのしい」という言葉にもいろいろあるにちがいない。ある人は無心に勉強するのが楽しいだろうし、講義を抜け出して映画を見に行くのも楽しいだろう。酒を飲むより楽しいことはないと言う人もいるだろうし、道を歩いているだけで楽しみを見つけだす人もいる。もちろん僕だって講義(一部に限る)を聞いて楽しいと思うし、酒は浴びるくらい飲む。ただ今ここで言いたい「たのしさ」は今挙げたような何か目標があって楽しいというのではなく、自分の今やっていること、これからやって来るであろう仕事も含めて愉しみにする「たのしさ」である。その「たのしさ」を持っているから「楽しい?」と聞かれた時に素直に「愉しいよ」と答えられるのだ。そうして自分が「生き甲斐」ならぬ「愉しみ甲斐」を持って動いていると周囲の人もそれなら俺だって、となるんじゃないだろうか?
幾らかの無責任さと、仕事を愉しむ余裕と、多分できるんじゃないかという程度の自信を持つことで仕事を引き受けることが楽しくなってくるのだ。この原稿が多少遅れても気にならないし(?)、無駄な知識を自分の中に取り入れるのが楽しくなってくる。そうすることで仕事が増えるけれども当然僕は楽しんでいる。親しい友人は「忙しそうだけど楽しそうだな」と言ってくれるし、その顔に憐れみの色などない。もちろん憐れみの表情で僕にそう言ってくれる人もいるけれども僕は決まって「愉しいよ」と答え、相手もそれで納得してくれる
希望的観測に過ぎないかもしれないが、人は必ずエンターテイナーであり、周囲の人を明るく幸せな気持ちにさせる力を持っているはずである。そういう人の周りには必ず多くの人が寄って来るであろうし、近くを通りがかった人を引き留めるだけの力があると思う。逆にそうできない人はまだ人を楽しませる力を持っていないと言うわけではない。考えればすぐに分かることだがそういう人は自分から楽しんでいないだけだ。だから周りにその熱気を伝えることができていないだけなのだ。氷の近くにいれば涼しいと思うし、炎に近づけば暖かくなるのと同じだ。そう信じて僕は今日もピエロとなってベッドから跳ね起きていくのだ。
筆者左
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