開かれた学問(75)

 生物学から見た因果応報 

文 写真・渡 辺 敦 光

 「親の因果が子に報う」と言う言葉があり広辞苑(第五版)によりますと「親のした悪業の結果が、子に報いてわざわいをする」と述べられています。
 この様な事が生物界で起こるのでしょうか。
 
 
イギリスからの報告

 一九九○年二月イギリス湖水地方の西側、風光明媚な海岸地方のシスケールにあるシェラフィルド核燃料処理場の従業者で放射線被曝を受けた父親から生まれた子供が被曝歴のない父親から生まれた子供よりも白血病を発症するリスクが六から八倍高く、英国核燃料公社の部長発言としてこの様な人々に「従業員らが希望すれば個人的カウンセリングを行い、ひどく心配しているなら子供を作るなとアドバイスすることもありうる」というショキングな発言が新聞に大きく報道されたのですが、放射線生物学では以前からこの様な事も起こるのではないかと心配されていました。


体内被曝

 体内被曝や体内曝露を受けた動物に奇形や癌が生じることがよく知られています。例えば妊娠の色々な時期に放射線、化学物質の曝露を受けたり、麻薬中毒者、アルコール依存症やタバコを吸う女性の子供には奇形や死産、若しくは体の小さい子供が出産することがあります。これは外界の物質が直接胎仔に作用した結果です。


動物実験

 牛乳の多く出る牛を選択し、競馬では足の速い親の精子を取りその馬の子孫を育てるなど、ある特別な人にとって有意義な形質を残す努力がされています。
 動物実験では両親に様々な処理を行い遺伝子の変異を生じさせ、その子孫の特別な形質を抽出し、新しい系統が作られています。大腸癌の発生に関与するAPC遺伝子の変異は化学発癌物質投与で起こり、この変異を持つmin(multiple intestinal neoplasia、多発性腸腫瘍)マウスが開発されています。抗生物質のサイクロフォスファミド、発癌物質若しくは放射線を両親に処理し、非処理の動物と交配しますとその子孫に癌以外の形質例えば白内障や、骨格の異常、発育遅延等を生じる事が知られています。ラットの雄にある種の化学発癌物質を投与し未処理の雌と交配しますと、その子孫(F1)に神経腫瘍が有意に多く発生します。また、一九八二年に阪大でICRマウスにX線を照射し二週間後(精子細胞期)に非照射の動物と交配しますと、そのF1に線量が増すと肺腫瘍が増加する(線量依存性)ことが報告されています。この研究は旧ロシアで追試が行われ、異なったマウスで阪大グループの結果と同様な結論を得ています。親の遺伝子の傷がその子孫(次世代)に色々な形質として伝播されます。しかし発癌に関与するかと言う課題は多くの研究者により実験が続けられています。


マウス肝腫瘍の場合

 私達の研究所では広島型の原爆と同じ線質を持つ252Cf(カルフォルニウム)中性子を発生する線源を持っています。これを雄マウスの全身に一回照射を行い二週間後に同年齢の雌マウスと一週間交配します。交配が終了した雄マウスは体重や主要臓器の重さを計ります。放射線線量を増加しますと体重は減少します。放射線に感受性の高い脾臓や精巣は少ない線量で重量が減少します。そこで精巣を小さく切りガーゼで濾した後に染色し精子の頭が一つで尻尾の二本あるものを精子(図1、2)の異常として計測しました。非照射のマウスにも四%程度異常な精子が発見されますが、放射線照射を行ったマウスでは放射線線量の増加に伴って異常が増加し、二○○cGy照射(被曝量を物理的に測定する時の単位)では対照群の約二十四倍まで異常精子が増加します。
 交配が終わった雌は三週間しますと出産します。そこで妊娠十八日目に一部の動物を剖検します。各々生存している胎仔と死亡している胎仔(図2、3)の数を数えます。その結果は正常なマウスでも約一割程度の死亡した胎仔が見られます。これも線量に依存して増加し、二○○cGyでは約七倍まで死亡胎仔が増えます。  交配した残りの雌を出産させます。正常な動物でも三割の動物が妊娠しません。しかし一○○cGy以上の照射では約半数の動物しか妊娠していませんでした。仔育ての様子を観察しますと五○cGy群までは全ての母親が仔育てを行いますが、一○○cGyでは半数の母親が処分してしまいます。二○○cGyでは一\二匹しか産まれませんが、全ての母親が仔を食べてしまいます。多分母親には駄目な仔が分かるのでしょう、例えば母親のミルクを飲まない仔、何らかの重篤な異常のある仔は育てず、大部分は母親が処分し、悪い遺伝子を子孫に残さないようにしています。
 次に生まれてきた仔は約二週間で眼が空き、歯が生え始めます。すると自分で餌を食べることを始めます。勿論母親のミルクも飲みます。生後四週間経ちますと母親から離し、雄と雌を分離して育てます。一四・五か月齢になりますと動物を剖検します。その際精子の所で述べた様に体重や主要臓器の重さを測定します。この間毎日動物施設に行き、動物が弱っていたり、死んでいないかを観察し、月に一度体重測定を行います。理由は分かりませんが、父親に照射した群の方が、対照群と比較して重い動物が見られることは大変興味ある現象です。脾臓、腎臓、精巣は一○○cGy照射群で非照射群に比べて軽くなっています。この理由も分かりません。特に注目すべき結果としまして雄の五○cGy群が対照群と比べて有意に肝腫瘍(図2、4)が発生しました。また一匹当たりの肝腫瘍の数が増加しました。雌で腫瘍の発生には群間で差は認められませんでした。  次に放射線をあて三か月後に九週齢雌と交配させ同様な実験を行いました。精子が精母細胞から精子になるまで三か月掛かりますのでこの時期を選びます。精巣は線量依存性に減少していました。精子の異常は二○○cGyでも二・三%程度でしたが、この場合でも線量依存性がありました。十八日の胎仔の致死はいずれの線量でも線量依存性はありませんでした。しかし出産して母親の仔育て率は一○○cGyでも半数しか育てませんでした。この様にして生まれた仔を毎月測定しましたら、五○cGyから二○○cGyまで雌雄共通に線量が増加すると体重は減少しました。しかしながら雄での肝腫瘍は五○cGyで増加の傾向がありました。

図1

図2

図3

図4
図1.頭部が1個で尾部が2本の異常な精子
図2.異常精子(○-○)、胎仔(●-●)の死亡並びに肝腫瘍(□-□)の発生率
図3.妊娠18日目 矢印で示すのが死んだ胎仔残りは正常な胎仔
図4.14.5か月齢雄に認められた肝腫瘍


イギリスでの否定的な動物実験結果とこの現象の考え方

 また英国のMRCのグループは癌の形質はその子孫に伝播しないという否定的な結果を最近報告しています。彼らは肺腫瘍を自然発生する雄マウスに二五○または五○○cGyのX線を全身に照射し、精子細胞期に非照射の雌と交配し、仔を八〜十二か月間飼育し、肺腫瘍の誘発を検討しました。生まれて来た仔の数は父親のX線被曝が増加する事により有意に減少したものの、F1の癌の発生は対照群と差は有りませんでした。
 私たちの結果もそうですが、胎仔の致死が増加しますとそのF1での癌の発生率は減少します。ヒトの卵子は受精の機会を得ても自然流産の率が高いことが知られています。例えば一○○個の卵が精子と接触しますが、臨床的に妊娠が確認出来る以前の初期胚段階でその四○・四%の胚が淘汰されます。いったん着床してから初期に流産するものが三三・八%、妊娠が更に進んでいわゆる自然流産で失われたもの三・○%を除きますと出産出来たものが僅か二二・七%に過ぎないとの事です。これは正常な状態です。色々なバイアスがかかりますともっと生まれる子供の数は少ないと思われます。この様に出産までの過程で色々と選択が起こります。大きく遺伝子の傷が付きますと精子の段階で、もう少し小さいと胚の器官形成の間で、また出産の折りなど様々な時期に悪い遺伝子を残さない様な機構が働くと考えられます。イギリスのグループがうまく行かなかった理由の一つは一腹当たりの仔の数が減少しているような線量を用いましたので、癌の伝播に必要な遺伝子が死んでしまい、癌としての形質が残らなかったと考えています。もう少し低い線量で致死の数が対照と変わらない様な線量で実験を行いますと、うまく行ったのではと考えています。即ち大きな遺伝子の変化は精子形成並びに受精時に選択され、中程度の遺伝子の変化は胎児や出生時に消失し、小さな遺伝子の変化がその子孫の癌発生に関与しているのではないかと考えられます。


将来にむけて

 自然界では親の受けた遺伝子の傷がその子孫に影響する事即ち因果応報はあるようです。良い形質が残れば良いのですが、悪い遺伝子が残ると大変です。「親の受けた遺伝子の傷が子孫に癌形質として伝播するか?」という命題に対する解答は明白でなく早急に解決しなければならない研究課題ですし、更にこれらの機構を遺伝子のレベルで解明する事が必要です。
 プロフィール

(わたなべ・ひろみつ)
☆一九四○年九月二十二日生
☆一九六四年 熊本大学理学部生物学科卒業
☆一九七四年 九州大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)(医学博士)
☆一九七三年
 広島大学原爆放射能医学研究所助手
☆一九九六年
 広島大学原爆放射能医学研究所教授
☆専門分野
 実験病理学 放射線生物学



 

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