開かれた学問(76)

 牛追いから身を起して 

佐 藤 正 樹

 ドイツで最初の自立した女性作家カルシンの名をご存じだろうか。
 その生涯の戦いの軌跡と詩のかずかずは、今もわたしたちの胸を強く打つ
 
 
大王の詩人

 一七六三年、アンナ・ルイーザ・カルシンは人生の頂点を迎えていた。八月十一日、午後五時、彼女はベルリン郊外ポツダムにある離宮サンスーシの「鏡の間」に立ち、居並ぶ廷臣に取り囲まれて、離宮のあるじが現れるのを待っていた。望んだこととはいえ、それがいよいよかなうかと思うと感無量であった。アンナは心臓が十二回も突き上げるように打つのと戦わねばならなかった。息が止まりそうになる。ベルリンへ来てはじめて着ることを覚えた晴着のスカートをぎこちなくひょいとつまんで膝を折り、頭を垂れた。フリードリヒは王座にあった。
 「そのほう、詩人か。」
 この方が今をときめく大王か。一度だけ観閲式に臨む馬上ゆたかな尊顔を遠くまぶしく拝したことはあったが、苛酷な七年戦争に耐え抜いたばかりだからであろうか、戦勝のたびそのいさおしをことほぐ詩を詠んできた鑽仰の的たるそのひとは、思いのほか老けているようにみえた。白いものが目立ち、歯が何本も抜けている。足をさすって大儀そうなのは痛風のせいだった。
 「はい陛下、そう呼ばれております。」
    冒しがたい威厳をたたえて王は質問をたたみかける。臆することなくアンナもそれに答える。答えながら、これまでの苛酷な歳月、極貧の暮しからここまで昇ってきた苦労のかずかずが脳裏を駆けめぐった。それが今では文壇の大家と親しく交わり、女の身でありながら学会の名誉会員にも推挙された。そして今、もっとも偉大な王の面前に立ち、自分の考えを堂々と口にしている。それにしても、自分の亭主はプロイセン軍籍にありながら軍隊から脱走いたしましたなどと、全軍の総帥に向かってよく言えたものだ、アンナはそう思ってわれながら驚いた。
 しかしフリードリヒはそもそもドイツ文学を見くびっていた。ましてやカルシンと言われてもぴんと来なかった。年のわりにしわが目立ち、肌は焼け、手にはひびがあった。取ってつけたような衣裳はいかにも不恰好というより滑稽な印象さえ与えた。が、大王讚歌のかずかずをしたためてくれる変り者の田舎女に、王は気前よく年金を約束した。そして王はその約束を忘れた。


詩集出版

 それから二カ月後、アンナは文学史上に輝く栄誉を手に入れる。無学な牛追いから身を起した四十女はついに『精選詩集』を出版する。これは十八世紀全体をつうじて、一冊の本としては最高の売上額を記録した。それは大王が約束した年金の実に十倍、二○○○ターラーに達し、ゲーテ、シラーさえついに及ばなかったのである。
 一七八七年、大王の後継者フリードリヒ・ヴィルヘルム二世は、ベルリン市内にアンナのために家を建てさせ、大王の果たさなかった約束を別のかたちでようやく履行する。アンナは最初の夫とのあいだに生れた末娘、それも離婚後に生れたカロリーネを呼び寄せる。が、娘は母をなじった。母がわが子をほったらかしにしていいものか、あなたこそ家庭を壊して父を捨てた張本人じゃないかと、来る日も来る日も娘は母を責めさいなんだ。


おさな妻、離婚、そして再婚

 事実はそうではない。母の指図で所帯をもち、十七歳で最初の子どもを産んでからは夫の暴力にさらされ続けた。折しも法律が改正され、それまでかなわなかった庶民の離婚が許されるようになった。アンナはその第一号だった。もちろん離婚に救われたという側面はあるが、それも夫の言うがまま同意させられたのだ。三人の子どもの養育費にと、嫁資も全部夫に取られた。結婚して十二年目のことだった。四人目の子どもがおなかにいた。それがカロリーネだった。母の言いつけですぐに再婚、相手は仕立屋のカルシュで、カルシンとはカルシュの妻という意味である。
 二人目の夫も横暴で、妻の才能をまったく解しなかった。六回の信じられないほど寒い冬。七年戦争。貧乏のどん底。末の二人の娘の死。夫の悪態。とにかく「不幸な結婚生活のあらゆる責め苦」を味わいつくした。友人を頼って各地を転々とした。なにか機会のあるたびに書いた詩が周囲の人たちの目にとまり、妻の将来にとって有害な夫を無理やり軍隊に入れてくれ、それでようやく夫から解放された。やがてベルリンに出て、哲学者のズルツァーや詩人グライムと出会った。グライムには見境もなく激しい恋をした。恋は実らなかったが、その記念のようにたくさんの恋歌を書いた。困っている人にはすすんで手を差し伸べた。カロリーネにはすまないことをしたが、自分としては精一杯だったのだ。
 母は娘を残して家を出た。ドイツとポーランドとの国境あたりに住む友人たちを頼った。しかし間もなく病気に倒れ、一七九一年十月一日、ベルリンの自宅へ戻されたときにはすでに危篤状態にあった。
 病床に横たわるアンナの目には何が見えていただろうか。二人の幼子の手を引いて、炎に包まれた街路を逃げまどったときのことだろうか。自分の詩才を高く評価し、心底からその身を案じてくれたおおぜいの人たちの善意と努力であったか。酒乱の夫のことか。それともはるかな少女時代のことであっただろうか。


子守と牛追いの少女時代

 アンナはドイツ語圏の東の果てシュレージエン、今のポーランド領で生れた。父はやさしい人だった。六歳の春に大伯父のもとに預けられ、そこで字を習った。面会に来てくれた父に「字が書けるのよ」と報告したら、父はほんとうに喜んでくれた。思えばそれが父の最後のすがただった。再婚した母にまた引き取られ、子守と牛追いに明け暮れた。朝早く、まだ太陽が夜露を飲んでいないうちから三頭の雌牛を追って出発した。頭上でヒバリの鳴いているのがなんだか誇らしかった。夏空の青い色が目にしみた。
 小川に出ると、向こう岸に男の子がすわって、幼い聴衆に本を読んで聞かせている。本だ。おじさんのところで見て以来ずっと手にしなかった本がそこにある。じゃぶじゃぶと水しぶきをあげて浅瀬を渡る牛のうれしそうな表情。
 すこし行くと、あざやかな赤紫色の花をつけたアザミの群生。わたしは勇敢になる。ダヴィデのような兵士になる。怖いものなんかありはしない。アザミの花は全部敵。牛を追う杖を剣に見立て、その首をちょん切る。おもしろくてしかたなかった。空腹を忘れた。第一そんなものはいつかなんとかなるさ。えいっ、えいっ、どうだ、降参か。――あのアザミ畑は今もあそこにあるだろうか。アザミの花よ、今もわたしを覚えているだろうか。
 十二歳で女中奉公に出て、それから結婚。離婚。再婚してまた子育て。夫は本を嫌い、見つけると激怒してそれを捨てた。赤ん坊の枕の下に本を隠してこっそり読んだ。そこからはい上がって二冊の詩集を出した。それは後世に残るだろう。わたしの人生の労苦もいつかひもとかれる日が来るだろう。――枕元の娘の声はもう聞えない。目がかすむ。
 アンナ・ルイーザ・カルシンは十月十二日に息を引き取った。享年六十八、当時としては長命の部類であろう。翌年『アンナ・ルイーザ・カルシン詩集』がカロリーネの手で編まれた。

『精選詩集』ベルリン、1764年(実は1763年)扉。カルシンの肖像画付き。


そして現代へ

 カルシンは生涯、疑問符も感嘆符も知らなかった。綴りも句読法も不正確だった。苦労の連続と教育の放置、時間の浪費の結果である。そもそも十八世紀はドイツ語の大きな転換期に当り、ルター以後の古いドイツ語の名残をまだ濃厚にとどめていた。それゆえにカルシンを正しく読むのは苦役である。信頼に足る作品集すらないありさまである。しかし、ドイツで最初の自立した閨秀作家、いわば三世代を一人で生き抜いたカルシンの声とその壮絶な戦いの記録を今の時代によみがえらせるのはわたしたちの責務である。そういう地道な作業が、少なくとも今のわたしのおもなしごとである。過去の歴史のかなたでわたしたちが近づくのを待っている有名無名の人々の声に、学生諸君も耳を傾けてもらいたい。が、それにしても、まっとうな辞書がいまだに完備されていない時代の記録を読むのは難儀なことである。

 プロフィール

(さとう・まさき)
☆一九五○年生れ
☆一九七六年 名古屋大学大学院修士課程修了
☆奈良県立医科大学、金城学院大学を経て、現在、広島大学総合科学部教授
☆ドイツ文学・風俗史専攻


 

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